雨戸繰るそこに輝く蜘蛛の糸

掲句のように開けた雨戸のむこうなら良いのですが、無防備に出た朝の庭でいきなり顔を覆い来る蜘蛛の巣、いやですねえ。また一年が過ぎてそんな夏がやってきました。いきなり捕虫網で掬われる蝉や蜻蛉の気持も分からないでもないなあと、、、。(2016年夏詠)

大楠の洞をねぐらに青葉木菟

そろそろアオバズクの声が聞こえる頃ですが、なぜかこの頃になると近所の神社のほうからフクロウの声が聞こえるのです。毎年のことです。フクロウもアオバズクも同じ仲間ですが、俳句ではフクロウは冬、アオバズクは夏の季語になります。そこで俳句にするときは青葉木菟で詠んだりしますが、鳴き声は明らかに梟です。見た目も似ていますが青葉木菟のほうが小型です、、、。(2016年夏詠)

薔薇莟む一日分の紅のせて

薔薇は比較的挿し木がしやすい木だと思う。昔は通りがかりに見事な薔薇を咲かせた家を見つけると、お願いして一枝頂いて帰ったりした。とは言え根気は必要で、素人が挿し木をしてもつく確率は低いものだった。もちろんこちらが差し上げる場合もあった。珍しい紫色の薔薇を、通りがかりのおばあさんに請われて、まだ木が弱いからと思いながらも切ってあげたら、案の定その後で枯れてしまった。後悔先に立たずだが、いまだにその色の薔薇を見ると思い出す、、、。(2016年夏詠)

山国の空深曇りえごの花

歳時記を見ると「果皮には麻酔効果があり、搾汁を川に流して魚をとるのにつかわれた」と書いてある。そう言えば昔、今は亡き近所の悪ガキの下で遊んでいた頃、魚が取れると言うその悪ガキが仕入れて来た半端な知識での指導のもとに、我々子分はまだ青い木の実をせっせと石で叩いて潰した記憶がある。だが、小さいながらも魚影の濃い川だったが、流す量が少なかったのか、やり方が悪かったのか、結局一匹も取れなかった。そして、悪ガキからその漁の提案が出てくることは二度となかった。ああ、あれがエゴノキだったのかと知ったのは、俳句を始めてずいぶん経ってからだった、、、。(2016年夏詠)

跳ぶやうに土手を行く人夏来る

気候が良くなると散歩する人が増えてくる。ウォーキングする人も。散歩との違いは服装と、それに足取り。まっすぐ前を向いて、大きく腕を振って、遠くから見るとまるで跳ぶような感じ、、、。でも、なかなか続かない。暑くなるとすぐ姿を見かけなくなる。そしてまた、季節がよくなると現れる。大きなマスクで顔は見えないが、たぶん同じ人、、、。(2016年夏詠)

毛虫這ふ見てをり話聞いてをり

もう一句、毛虫の句です。早く終わらないかなあと思いながら聞いている散歩途中の立ち話。ふと足元を見ると大きな毛虫、せっせと道を渡っていく。おいおいそっちに行くと大きな足で踏まれるぞ。そうそう、まだ気づいていないぞ、そこで曲がれ。と、話に相槌を打ちながら、、、。(2016年夏詠)