車まで母の差す傘秋時雨

実家を出ようとすると雨が降っていた。車までは十メートルほど、濡れてもたいしたことはない距離だったが、母の出してきた傘に、半分ほどはみ出しながら入れてもらった。まだ母は元気だった。父も母も家を出る時は必ず見送ってくれた。見送ってくれる笑顔の奥に寂しさが見えて、こちらまで寂しくなるのだった。今は自分がその立場になって子どもたちを送っているが、子どもたちには同じように見えているのだろうか。早めだが今日は母の一周忌。(2001年秋詠)

八朔や手焼きの皿に指の跡

焼物に詳しい訳ではありませんが、見るのは好きです。本当は欲しいのですが、良い物はそれなりの値段がしますので、見るだけになります。名古屋の親戚に寄った時、毎年行くという瀬戸物祭の話になって、いろいろ見せてもらっているうちに一枚だけ気に入って、貰ってしまいました。名のある焼物ではないのですが、くっきりと指の跡のある皿です。(2000年秋詠)

朝まだき猫が爪研ぐ稲架の杭

この辺りで稲架を目にすることは無くなってしまったが、作句した2001年当時は、まだそこここに稲架が見られた。ある時は朝日の光の中に、ある時は朝霧の中に、一段だけの低い稲架が、何列も静かに並んでいる風景が懐かしい。そんな中で、見ればすぐ我家の猫と分かったが、田圃を横切っての朝帰りの途中、その稲架の杭でゆっくりと爪を研ぎだした。何とも満足げな姿に見えた。(2001年秋詠)

鉄橋を渡る一両秋の声

院庄駅を発車した一両だけの列車は、ゆっくりと速度を上げ、やがて吉井川の鉄橋へとさしかかる。コトコトウィーン、コトコトウィーンと聞えていた音に、ガタゴトガタ、ガタゴトガタと鉄橋の音が加わる。渡りきったあたりで、遠くの踏み切りに人影でも見えたのか、プアーンと間延びした警笛を鳴らし、その鳴らした音と一緒にコトコト、コトコトと遠ざかって行った。(2011年秋詠)

水澄んで水の影ある水の底

秋の晴れた日に、川の澄んだ流れを見ていると、表面の凹凸と日差の角度の関係か、水底に水の影が見えることがあります。子どもの頃から水を見るのが好きで、いまだにその癖が治りません。一年中見ていても、川の水がほんとうに澄むのは、わずかな期間だけのように思います。(2009年秋詠)

きちきちが次のきちきち発たせけり

いわゆる精霊飛蝗であるが、子どもの頃は飛蝗と言えばこれを指していた。比較的背の高い草原に多い。近づくとキチキチキチと翅を鳴らして飛立ち、数メートル先の草原に舞い降りる。そこからまた次がキチキチキチと飛立っていく。限りなく続けば面白いのだが、、、、、。少しずつ秋も深まってきた。(2010年秋詠)

捕まらぬ距離を保ちて赤とんぼ

河原に群れている赤蜻蛉の中を歩いて行くと、捕まらないように程よい距離で群が開いていく。蜻蛉の眼は後のほうまで見えるから、スイスイとそ知らぬふりで距離をとり、通り過ぎるとまた元の群に戻っていく。(2010年秋詠)

夏雲と秋雲空を住み分けし

ある季節が去り、次の季節に移り変わろうとする頃の空を「行き合いの空」と言うそうです。もちろん夏から秋に限った事では在りませんが、美しいのはやはり夏から秋への「行き合いの空」ではないでしょうか。上空にはすじ雲、遠くの山の端には小ぶりですが峰雲が立ち上がり、両方の美しさが見える時があります。(2010年秋詠)

雲が雲追ひ越して行く野分あと

暴風が去りかけた空を見ると、雲が何層にもなっているのが見えることがある。はるか上層にはすじ雲が青空を分けるようにあり、下層にはちぎれた黒い雲が、重なって見える。その黒い雲も何層かになっていて、気流の関係だろう、下層の雲が上層の雲を追い越して行くように見える。ちょうどあの辺りに前線があるのだろうと、テレビの天気予報で動いていく前線を想像したりする。(2011年秋詠)