音たてて黴の戸ひらく修行僧

<その6>翌日はホテルのフロントに荷物を預け早朝から出かけました。三井寺へは拝観時間前に着いてしまいました。広い寺領に点在する建物のそれぞれで、朝の準備が進んでいました。そんな御堂の一つ、まだ周囲の窓が板戸で閉じられていましたが、急にがたがたと音がして内側から手が現れ、一枚ずつ順番に開けられていくのです。二方向ぐらいが開いたところで、頭を丸めた作務衣姿の若い僧が顔を出し、大きな声で挨拶をしてくれました。(2012年夏詠)

「音たてて黴の戸ひらく修行僧」への4件のフィードバック

  1. 街角でたまに見かける托鉢の僧、修行中の身ならば煩悩など無いのかと思うけど、一方で托鉢をしながら何を思うのか?仏教の修行などした事のない我が身なれば『誰か恵んでくれないか?あの人は恵んでくれるかな?』等と考えてしまいそう。http://www.weblio.jp/cat/hobby/gndhh  こんな所で「托鉢の僧の真偽も十二月」という句が掲載されていました。 何の事か全く分かりません。解説を望みます。

    1. 父を送り、母を送り、だんだんとお寺さんと話す機会も多くなりました。
      良いお話もされるので、それはそれで結構ありがたいものです。
      托鉢は修行をして資格を持ったお坊さんでないと出来ないのだそうです。
      ところがそうでは無い僧が居る、それも師走になると増えてくるというのが事実で、それがこの句の背景でしょう。
      京都のような、日常の生活の中にお布施の習慣がある土地ならではの句ではないかと思います。
      十二月にはそれが重なるものだから、つい「あれっ、ホンマにお坊さんどすやろか?」と真偽を疑いつつも、「ま、十二月やから、しかたおへんな」と、また何がしかのお布施をされるのではないでしょうか。

  2. money.childさんと同様に私も判らなかったのですが、見事な解説で了解しました。
    牛二さんて、俳句も上手いけど京都弁も上手いのですね。

    バンコクの郊外のホテルから早朝、緑したたる窓の外を見ていると、オレンジ色の
    法衣を着た僧が朝の托鉢に出ている姿がありました。修行というより、どちらも慣れた
    動作で毎朝の恒例の行事と言うように見えたことがありました。

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