生垣の南瓜蔓ごと引き寄する

ハロウィンも定着してきましたね。ちゃんとカレンダーに載っています(隣に仏滅の文字も)。日本に来ると何でもお祭りになりますね。我が家はしませんが、散歩の途中で玄関脇に例のカボチャを見かける家もあります。掲句は昨年のカボチャの収穫です。今年も採れました。まだ二つばかり残っています。冬至までもてばよいのですが、、、。(2015年秋詠)

境内の小さき稲荷や黄葉降る

近くにある小さな神社。その境内の裏手にあるさらに小さなお稲荷さん。お稲荷さんだが朱塗りの鳥居は無い。社の大きさに比べると立派な置物の狐が二頭。これがなければお稲荷さんとは気づかないだろうと思う。だがしかし、そのさらに裏手の茂みの中には本物の狐が住んでいる。何かの拍子で見かけると、こちらもびっくりするが向こうもびっくりするらしい。お互いにしばらく立ち止まり、慌てて先に隠れるのは狐のほう。お稲荷さんの傍で見かける狐だから神様のお使いかも知れないが、やせ細っている、、、。(2001年秋詠)

籾殻の火に道草の塾帰り

徒歩通勤だった会社からの帰りに見かけた景。籾殻は何日もかけて焼かれる。田の中にうず高く積まれた籾殻はちょうど火山のようで、その頂あたりから煙が出る。日暮れてくるとちょろちょろと赤い火が見えるようになる。まるで火山の模型のようで楽しい。ついつい遊んでみたくなる、、、。(2001年秋詠) 

秋の日や手錠の人のうつろな眼

これも古い句です。大阪への出張の途中、トイレ休憩に寄った高速道路のサービスエリアで見かけた景です。護送途中だったのでしょう、トイレから出て来た人のどこを見るでもないような目、手錠、後に目つきの鋭い屈強そうな人、、、。(2000年秋詠)

パンパンと打つ拍手に秋気澄む

信心深いわけではありませんが、神社に行けば柏手を打ってお祈りをします。持ち合わせがあればお賽銭も少しは出します。額よりもお願いすることのほうが多いのはいつもの事ですが、秋になると柏手の音もよく響いて、なんだか願いが叶うような気になるのです、、、。(2015年秋詠)

指太きカレーの市民石榴の実

子供の頃近所に一軒だけ柘榴の木がある家がありました。急な坂を這うようにして上ったところにある家で、同年代の子供もいなかったので滅多に行くことは無かったのですが、たまたま行った時に熟れた柘榴を頂いたことがあります。後にも先にも一回こっきりで、以後あまり食べた記憶が無いのが柘榴です。掲句は倉敷大原美術館、なぜ突然柘榴の実が出て来たのか、これは一年前の事なのに記憶がありません、、、。(2015年秋詠)

廃屋の裏を覗けば烏瓜

ここに引っ越した時にはもう住む人が居なかった近所の家、立派な農家の建物で、時々は戻って来られるらしく人の姿を見る事もあった。それからもう三十年、新築だった我が家も古びてしまったが、この近所の家はとうとう今年崩れてしまった。掲句は昨年、表よりももっと傷んだ家の裏で唯一華やいだ色を見せていたのが烏瓜の赤だった、、、。(2015年秋詠)

スケッチの指先秋を線として

スケッチをしている人を見かけると、失礼とは思いつつ、つい覗き込みたくなってしまう。逆の立場だったらスケッチどころではないだろうと思うのですが。掲句、阿智神社の石段を上ったところで見かけた男性。指先からどんどん秋が生まれてくる、、、。(2015年秋詠)