深秋の見慣れし街に知らぬ道

元来が出不精で、普段は必要なところにしか行かない。道も一つ覚えたらたいていその道を通ってしまう。だから、たまに横道に反れようものなら、新鮮な風景に出会って驚くのである。見慣れていたのは表通りだけで、実はその裏にこんな風景があったのだと。掲句は津山吟行での句。かつて歩いた田園地帯が、いつのまにか住宅地になり、また知らない道が増えていた。(2010年秋詠)

寝転べば秋天我に降るごとし

広い丘の所々にベンチが置かれている。屋外で寝転ぶなんて何年ぶりだろうと思いながら、寝転んでみた。晩秋の晴れた空以外に視界に入るものは無く、見つめているとしだいに、底なしの青さが自分めがけて降ってくるような、そんな感覚にとらわれた。津山グリーンヒルズ吟行での句。(2010年秋詠)

弔のごみ焼くほとり赤のまま

また昨日の続きになります。葬儀で出たごみを焼くのも仕事の一つです。畑であったり、近くの空地であったりしますが、このときは家の傍の水路際の空地でした。秋の日はもう西に傾きかけ、肌寒く感じるような時刻になっていました。赤々と燃える炎の周囲には犬蓼がたくさん咲いていました。(2000年秋詠)

庭の木に鵯の一声葬の家

鵯の句をもう一句。前にも書いたことがありますが、2000年当時はまだ自宅での葬儀が普通でした。道路に面してお庭のある古いお宅の葬儀でした。葬儀も終盤にさしかかった頃庭の木に一羽の鵯が飛んで来ました。鵯は大きな絞るような声で一声鳴くと、たちまち飛び去ってしまいました。その声が妙に耳に残り掲句になりました。(2000年秋詠)

天に鵯地に子どもらの日曜日

岡山大学から程近いところに公園「こどもの森」があります。入場無料ですが自然がいっぱいで手入れも行き届き、子どもたちが遊ぶにはもってこいです。俳句好きの大人が遊ぶにももってこい、ということで合歓の会の吟行があった時の句です。秋晴の公園はたくさんの子どもたちで溢れ、賑やかでした。色づき始めた木々の上にはたくさんのヒヨドリが、これもまた賑やかに秋を満喫しているのでした。無料駐車場が狭いのが難点でしょうか。(2009年秋詠)

蟷螂の鎌上げ水に顔映す

生まれたての小さなカマキリは可愛いが、10Cmを越すようになると、ちょっと引いてしまう。顔つきもあるが、あのギザギザの付いた前足は、いかにも武器といった感じがする。蟹の爪やクワガタの前足はもっと鋭いが、どちらも掴めば絶対大丈夫な部分がある。ところがカマキリにはそれが見当たらない。どの方向から手を出しても、あの鋭い鎌が襲ってきそうな気がする。(1999年秋詠)

猪出でしことは日常婆笑ふ

岡山県中部の山中に本山寺という私の好きなお寺があります。合歓の会の方々と吟行したおりに、たまたま傍の民家のお婆さんと話す機会がありました。家の裏側の畑の、真新しい猪の堀跡を「いっつもの事じゃけえ。よお知っとるもんで。こかあ、じゃが芋を植えとったけえなあ。小めえのが残っとるんじゃが」と笑いながら説明してくれました。いろいろ話しているうちに「息子と一緒に住んどったんじゃが、息子のほうが先に逝ってしもうて、一人になったが、、、」という事も聞き、それからというもの気になっていたのですが、先日訪ねると家はもう空家になっていました。家の裏側の畑には、相変わらず真新しい猪の堀跡がありました。(2010年秋詠)

十月の雀に愁なかりけり

雀はずいぶん少なくなりましたね。今年は秋の田圃に付き物だった案山子やキラキラと輝くテープを見ない内に収穫が終ってしまいました。農業に従事されている方にとってはありがたいことだと思いますが、暇な私は原因は何だろうかなどと考えてしまいます。そんな中でも我家の屋根の上には、十羽にも満たない数ですが、今も賑やかな声が聞えています。雀の声ってホントに楽しそうですね。(2010年秋詠)

集まりて秋の白鷺なほ孤独

夏の間は青田の中に首だけ出していた白鷺が、秋になると川沿いの木の上であったり、川べりの浅瀬であったりに群れている。群れているだけで、それぞれ違う方向を見てじっとしている。白鷺はいつ会話をするのだろう。番になるにも会話が必要だろうと、いらぬお節介を考えたりするのです。(2012年秋詠)

人参の芽にやはらかき朝の露

本気で農業をされているお宅の田圃は、稲の収穫が済むとたちまち畑へと変身し、次の作物が植えられる。大根であったり人参であったり、その年によって異なるが、十月も終わりごろになるともう次の作物が育ち始める。人参は大根などとは一味違った、いかにも人参といった元気な緑色をしているのですぐ分かる。(2000年秋詠)