枯芝にロダンの像と師と影と

大原美術館の分館前にあるロダンの「歩く人」です。この像に頭と手足を付けて完成したのが「説教する聖ヨハネ」とのことですが、以外と大きい。というかたくましい、、、。枯芝に日差しがあふれ、そこに句作に集中している我が師とロダンの像のそれぞれの影が、、、。(2013年冬詠)

精米所軒を灯して暮早し

近所の米穀業者、稲刈が始まる頃から年内ぐらいは忙しそうにされている。工場の外に早々と灯りを点けて、フォークリフトが忙しく走りまわっている。ちょっと遅く散歩に出ると、ちょうど土手の上からその光景に出会うことになる。職種は違うが、何だかなつかしい、それでいてちょっと寂しい気持ちになる。四年前の今頃は、、、。(2013年冬詠)

一雨に進む季節や新走

ちょっと(を通り越して)寒くなってきました。新走(あらばしり)は今年酒、新酒のこと、歳時記では秋に分類されています。昔は仕込みが早かったのですね。私はてっきり酒造りは寒い時期の仕事とばかり思っていました。と言うのも、私が子供の頃は田舎のお百姓の男衆の多くが、冬の間は酒造りの出稼ぎに行っていた記憶があるからです、、、。私はのんべえでは有りませんが、のんべえの皆様、お酒の美味しい季節になりましたね、、、。(2013年冬詠)

静けさや帰燕の後の無人駅

ちょっと寄道をして、津山線の無人駅に寄った時の句。夏にも寄った。その時は、どこの駅もそうだが、燕の巣があり、親燕が戻ってくる度に餌をねだる雛たちの声が賑やかだった。掃除をされる方の、何とか燕に出て行ってもらいたいという努力の跡が見られたが、負けてはいられない燕のほうが強かったようで、雛の数×巣の数=声の数で賑わっていた。それが、晩秋に寄ったこの時は、まるで音が無いのだった、、、。(2013年秋詠)

ねつとりと絡みて秋の蝸牛

昨日柿の木の下で、カタツムリの交尾を見た。と言っても伸ばした首をお互いに絡ませているだけで、動きがある訳ではない。口のあたりが泡に包まれているのが普通と違うところぐらい。カタツムリは雌雄同体で、その時その時で雌雄が決まると何かの本で読んだ事がある。どっちがどっちなんだろうと思ったが同じように見える。カタツムリの交尾自体めったに見えるものではない珍しい事と思い、写真でも撮ろうかと思ったが、思っただけで忘れて、PCに向って今日の句を探していたら、2013年にこんな句を詠んでいた。あれっつ?見たことも忘れているぞ、、、。(2013年秋詠)

遠き山近くに映し秋の川

久しぶりに老釣師を見かけた。それも、田圃の脇を流れる小さな水路をねらっているところだった。「こんな所で釣れるんですか?」と聞くと「ああ、釣れるよ」と、傍らの青いバケツを指差す。覗くと5Cmぐらいの魚が二匹、「ホントだ」「白ハエじゃあのうて、タナゴじゃけどなあ」と言いながら、餌に手を伸ばす。その先を見ると、「んっ?餌はスパゲッティですか?」「ああ、ミミズでもええんじゃけどなあ、今日はちょっとこれでやってみよう思うて」「へえ~っ!いろいろ工夫されるんですね」「、、、。最近眼が見えんようになって」と、スパゲッティの餌付けに時間がかかっている。やっと出来たところで、「竿もホントはこんな長いのは要らんのじゃがなあ」と言いながら竿を伸ばす。確かに、3mほどの竿は水路には立派すぎる、、、。(2013年秋詠)

オカリナの止めばのどけし昼の鐘

オカリナの合奏が終わったときに、偶然どこからかお昼の鐘が聞えてきた、という岡山西川緑公園の街角コンサートでの句です。子供の頃の田舎には各家に有線放送の設備があって、決まった時間になるとラジオの番組が流れてきました。代表的なのが日曜日のお昼のNHKのど自慢で、その鉦の音は今でも耳に残っているような気がします。それも合格の鉦ではなく、二つとか三つ鳴るときの絶妙の間合いは、最高だったなあ、、、。(2013年春詠)

ぼうたんや幟はためく方に寺

平日のほうが人が少ないだろうと思って出かけた近所のぼたん寺、知った人に遇うことはないだろうと思っていたのに見覚えのある顔、向こうも気づいたようで、どちらともなく近寄って握手を交わしました。かつての会社の同僚でした。彼もすでに退職していて、年賀状で近況を知るぐらいだけだったのですが、何はともあれ元気そうな姿を見て安心しました。ブログ用の写真撮影とのことでしたが、早速送られてきた写真が素敵だったので、チョイと拝借してしまいました、、、。(2013年春詠)