掲句は岡山駅の西口から線路沿いに歩いていて目にした風景ですが、大きな駅はどこでもこうなのかも知れない。津山駅は線路と並行している山沿いの道を車で走っていると、やはりこのような電車だまりが見える。駅は賑やかな表の風景もいいけれど、このような裏側の風景にも惹かれる。春の駅には別れと出会いが待っている、、、。(2013年春詠)
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縦横に川使ひけり春の鴨
冬の間はくっつくでもなく離れるでもなく、浮寝鳥を決め込んでいた鴨たちですが、春の日差とともに活発に動くようになります。活動範囲も広くなるようです。川幅いっぱいに自由に泳ぎまわって、何やら遊んでいるようにも見えます。浮寝鳥の時と違って楽しそうですね、、、。集団で河川敷に上がって草を啄ばむ姿もよく目にします。新芽ばかりを啄ばむのでしょう、後には指の先ほどの鮮やかな緑色の糞がたくさん残っています、、、。(2013年春詠)
春雪の川に一羽の立ん坊
いやあ降った降った、昨日(2月8日)は久しぶりの大雪でした。ヘッダーの写真も昨日の物に替えてみました。春の雪は明るくて良い、なんて言えるのは降っても被害のない所だからでしょう。一年の半分が雪の中のような所で生活されている方々にすれば、何を馬鹿な事を!と叱られるでしょうね、、、。掲句の立ん坊は川鵜です。降りしきる雪の中で、吉井川の中ほどに覗いた岩の上に、たった一羽で川鵜が突っ立っていました。いかにも寒そう、と思うのは人間だけなのでしょうか、、、。(2012年春詠)
冴返る井上旧家たたき土間
倉敷美観地区にある井上旧家、今は改修中のようで閉じられている。改修されてどのように公開されるのか楽しみにしている。掲句の頃は見学できるのは玄関を入った土間だけで、そこから座敷の奥も覗くことは出来たが、物足りなさが残った。ボランティアの説明員用だろう、入口の脇に石油ストーブが燃えていたが、寒々とした土間の印象だけが残っている、、、。(2011年春詠)
近道を覚えし足に春の泥
路地の多い所は楽しい。新しい道を見つけて抜けると思わぬ所に出ることがある。掲句は岡山駅西口近辺での句、ふと気が付くと靴どころかズボンにまで泥が付いていた。おまけに去年の残りの草の実までも、、、。(2013年春詠)
如月や口縁薄きティーカップ
普段はコーヒーだろうが紅茶だろうが同じマグカップで、サッサと淹れてサッサと飲んでしまいます。もちろんティーバッグはカップに入れたままです、、、。午後の紅茶と言うと何やらCMのようになってしまいますが、たまにはと思い取り出した年代物のティーカップ、テーブルの上の午後の光に、湯気がゆっくりと揺らめいています。縁から下がったティーバッグの紐さえも絵になるようです、、、。(2013年春詠)
春光のまぶしき朝のにはたづみ
だいたい雨上がりの天気の良い朝は眩しいものと決まっていますが、早春のそれは特に眩しい気がします。ちょうど山の上に朝日が顔を出す頃に、東へ向って歩く散歩コースは、アスファルトの道も、道に出来た水溜りも、空気までもが輝いて見え、目を細めても追いつかないぐらいです。特に最近、、、と書きかけて気付きましたが、これって視力の衰え、、、?(2013年春詠)
旧正の餅と届きぬ父の文
気が付けば今日は旧暦の元旦、歳時記では旧正月は春に分類されているが、今年のように冬の間に来ることもある。掲句も句稿によれば冬に記録しているので早かったのだろう。あるいは俳句初心者の頃で、そこまで気が回らなかったのかも知れないが、、、。実家は田舎の古い家だったから、子どもの頃から正月は新旧の二回祝った。そんな訳で家を出て所帯を持った後も、旧正月前には実家から餅が届いた。実家ではそんな事はすべて父の仕事だったので、いつも父の手になる何がしかの手紙が添えられていた。この頃からだったろうか、父が修正液を使い始めたのは、、、。(1997年冬詠)
駅燕あまたの別れ見て育つ
また燕の句です、、、。これは津山駅の燕、久しぶりに早朝の駅頭に立ったときに、見下ろしていた子燕を見て詠んだ句です。この子燕たちは毎日沢山の人を見ているけれど、その中には出会いも別れもあるだろうなあ。出会いと別れのどちらが多いのだろう?別れのほうが駅には似合うかなあ。と、そんな事を考えているうちに、乗車の時刻になりました、、、。(2012年夏詠)
五線譜に残るメモ書暮の春
いろんな事をやって、行き着いたところにあったのが俳句だった。ご多分に洩れずギターもやった。始めたのは中学三年生のときで、ギターも三本も持っていたこともある。田舎に帰ればまだ一本は残っていると思うが、手元にはもうない。もう手は動かないが、楽譜は読める、と、お、も、う、、、。(2009年春詠)