仕残して定年退職花菜風

河原から菜の花の種を採ってきて、自宅裏の土手に蒔いておいたら、数年で土手一面を覆うようになってしまった。まさに一面の菜の花で、しばらくは鮮やかな黄色とむせるような香りにつつまれた日々となる。その後はどうなるか、と言うと菜の花は咲きながら成長し、種が熟れる頃には持て余す大きさになってしまう。強い、、、。(2012年春詠)

確かむる風の方角初つばめ

帰る鳥もあれば来る鳥もある。去年の俳句手帖を見ると、三月二十七日に初燕の記録がある。昔より早くなっているような気がするが、俳句を始めるまでは初燕なんて意識したことは無かったのだから、何とも言えないことではある、、、。(2011年春詠)

反古焚きのけむり真つ直鳥帰る

鳥たちが北へ帰るのはいつも突然で、気がつけば姿がなくなっている。この時も気づいたのは夕方、土手の上から見下ろす川面に、昨日まで居た鴨の群れはなかった。広い田圃の向うに、反故焚きの小さな火が見え、夕暮れの空へ煙が上っていた、、、。(2003年春詠)

管理人呼べば出でくる春炬燵

津山市の城東地区にある作州城東屋敷、江戸時代の町家を復元した無料休憩所だが、管理を任されているのは地区の方らしい。いつも数人の方が居られるが、この時は入り口を入っても人影がなかった。ガラス戸の向うに灯りが見え、話し声が聞こえるので声をかけてみるが、笑い声に消されて聞こえないらしい。何度目かで「はあい」と返事があり、やおら立ち上がる気配。ガラス戸が開いて、出てこられたのはそこそこの老婦人。その後に大きな炬燵と、同じく同年代と思われる女性の姿があった、、、。(2013年春詠)

道具屋の主も古しうららけし

岡山駅前の大通りに面した骨董屋さん(名前は忘れました)、ちょいと覗くと奥のほうに備中神楽の面が見える。吸い込まれるように入っていくと、ところ狭しと飾られた骨董品の間から、これまた同じくらいに古びた主のにこやかな顔が、待ってましたとばかりに出てくる。「お面ですか?」「え、ええ、まあ、、、」「こっちにも良いのがありますよ」「いえ、見るだけですから」「かまいません、いくらでも見てください」そんなふうに言われてもと、そうそうに店を後にしたが、それにしてもあの主の笑顔は骨董屋らしくてよかった。それから二回ほど寄ってみた、、、。(2013年春詠)

人逝くもひとつの話題春炬燵

久しぶりに田舎へ帰り墓参りをしてきた。父が亡くなったのは春のお彼岸、母が亡くなったのは秋のお彼岸、と、無精者の息子を気遣ってのことかどうか、いろいろ纏めて済ませてきた。掲句、まだ父母とも元気だった頃、久しぶりに帰ったの実家の春炬燵で、父ととりとめのない話で時間をすごした時の句。どこそこの誰それが、、、と、聞き覚えのある人の訃報に相槌を打ちながら聞いたものだが、数年後にはその父がその「どこそこの誰それ」になってしまった、、、。(1999年春詠)