「見てっ!」と言う風に少しだけ鳴いて、あとは一直線に川を渡っていく。川の中央付近で少し高度を下げ、しばらく瑠璃色の背を見せる。「おっ、翡翠」と気づく頃にはもう再び高度を上げ、そのまま向こう岸の茂みに消えてしまう。翡翠は比較的人家に近いところに居るが、警戒心は強く、なかなかじっくりと観察は出来ない。鳥に警戒されないようになれたら楽しいだろうと常々思っているが、なかなか、、、。(2014年夏詠)
義母+夫婦の暮し手毬花
ちょっと遊んでみました。「プラス」と読んでください、、、。近所のお宅、庭も畑も花で溢れています、、、。(2014年夏詠)
よしきりや瀬音高めし昨夜の雨
よしきりを知ったのは中学校の教科書に載っていた「行行子(よしきり)は鳴く/行行子の舌にも春のひかり」という草野心平の富士山の詩の一節でしたが、私の育った田舎によしきりの飛来はなく、その鳴声から付いたという行行子の名前も、知識として興味を持っただけでした。それが、今の住所に移って数年後のある年に、突然吉井川の中州から聞きなれない「ギョッ、ギョッ、シ、ギョッ、ギョッ、シ」という声が聞え始めたのです。「あ、これがよしきりだ」とすぐに分かりました。それから毎年、この声を聞くと、草野心平の詩を思い出してうれしくなります。心平の詩は春ですが、俳句では夏、この辺りではちょうど夏に合わせたように聞え始めます、、、。(2014年夏詠)
命あるものに幸あれ聖五月
歳時記で聖五月の項を見ると、カトリックでは五月は聖母マリアを讃える月と書いてある。そこから聖五月、あるいは聖母月という季語になったのだろう。五月は生命力に溢れている。命あるものはみな美しい、と思えるようになりたいが難しい、、、。(2014年夏詠)
緑蔭を洗ひて川の速さかな
夏になると用水の水量が増えるのは田植の準備のせいだろうと思う。掲句は例によって西川緑道公園での句で、この川が直接田圃と関係があるのかどうかは知らないが、初夏の頃は水量が増える。もともと水量は川幅いっぱいあり豊かなほうだと思うが、それがさらに増えてとうとうと流れる様は気持ちが良い。両岸の木々も緑が濃くなり川面に影を落としている、、、。(2014年夏詠)
糠雨に朝の早緑夏来る
そうこう言っているうちに夏になってしまいましたよ。緑、とりわけ初夏の雨に濡れた朝の緑は美しい。降るでもなく止むでもなく、半袖の腕に小ぬか雨が心地よい、、、。(2014年夏詠)
オカリナの止めばのどけし昼の鐘
オカリナの合奏が終わったときに、偶然どこからかお昼の鐘が聞えてきた、という岡山西川緑公園の街角コンサートでの句です。子供の頃の田舎には各家に有線放送の設備があって、決まった時間になるとラジオの番組が流れてきました。代表的なのが日曜日のお昼のNHKのど自慢で、その鉦の音は今でも耳に残っているような気がします。それも合格の鉦ではなく、二つとか三つ鳴るときの絶妙の間合いは、最高だったなあ、、、。(2013年春詠)
外来種まじりて亀の鳴きにけり
倉敷のアイビースクエアの隅のほうに小さな池があり、たくさんの亀がいる。狭い岩場が作ってあって、春先には亀たちがぎゅうぎゅう詰めになって日差を浴びている。遅れをとった亀が、その日を浴びている亀の上に上ろうとするのだが、上手く足がかからず、途中まで上ってはごろごろドブンと落ちてしまう。それでも懲りずに、何度も何度も上っては落ちている。そのごろごろドブンの時の音がなんだか悲鳴のように聞え、本当に亀って鳴くのかも知れないと思った。掲句は別の場所の亀で、アイビースクエアの池には外来種は見当たらなかった、、、。(2014年春詠)
蛇穴を出づ昨日とは違ふやつ
今年は寒暖の差が大きい春だったせいか、ずいぶん早くから蛇の姿を見ました。暖かいからと出てきたら次の日は寒くて、逃げようにも動けないでいる、だからよけいに目に付いたのかも知れません。丸まっていたり、伸びられるだけ伸びていたり、中には折りたたむような形をして日を浴びているのですが、動きが遅いものだからじっくりと観察出来るし、怖くもない。あ、怖くないと思うのは実は早春のこの一時期だけで、蛇は苦手です。今年は数も多そう、今ではほぼ毎日出会います、、、。(2014年春詠)
見ゆるものみなやはらかし暮の春
五月に入りましたね。かつて黄金週間、今ゴールデンウィーク、毎日が休みの身の上としてはただ坦々と暮らすのみです。下手に出かけると交通事故に遭いそうで、、、。(2014年春詠)