通りがかりの新築現場での句です。ここに限らず、一人仕事の多い大工さんは、ラジオを友とされていることが多いですね。昼食後のつかの間をラジオを聞きながら三尺寝、不思議と時間が来ると眼を覚まし、、、。(2002年夏詠)
投稿者: 牛二
一両の電車植田に映り行く
長法寺からさらに数十メートル登ったところに多宝塔があり、広く市街から郊外の田園地帯までが見渡せる。住宅地も増えてはいるが、まだまだ水田も多く、その間を津山線の単線の線路が岡山へと延びている。ちょうどこの時季には、田植が終ったばかりの田んぼに、走って行く電車が空と一緒に映って見える。たいていが一両か二両で、スピードの遅い電車は、なんとものんびりした風景を見せてくれる、、、。(2010年夏詠)
ラジオよりナイター流る紙器工場
通勤途上に倉庫を改造したような小さな紙器工場があった。時々朝早くから親会社のトラックが止まり、裁断したダンボールの束を降ろしているのを眼にしたが、従業員はいつも同じ人を一人見るだけで、他に人声がすることもなかった。裁断されたダンボールを箱に加工するのが仕事らしく、通る度にいつも古びたプレス機の音が単調にカタコンカタコン続いていた。冷房が無いのか夏には窓が開き、夕刻に通りかかるとラジオから、ナイター中継のアナウンサーの興奮した早口の声が、プレス機より大きな音で聞こえて来るのだった、、、。(2000年夏詠)
ががんぼの繋がつて飛ぶ日暮かな
大蚊と書くぐらいだから蚊の仲間なのでしょう。かといって人を刺す訳ではなく、触ればすぐに足が取れてしまう、いたって貧弱な、存在すらあやふやなような虫。そんなががんぼが、暮れ残る明るさの中を繋がって漂っていた(飛んでいたと言うより漂っていた)、、、。(2000年夏詠)
夏祭赤透き通るニッキ水
祭の屋台に並ぶひょうたん型のビンに入った鮮やかな色のニッキ水は、今となればどう見ても健康的だったとは思えませんが、何といわれようと子どもの頃は好きでしたね。今でも時々見かけますが、たぶん中身は成分も味も違っているのでしょう。ビンの形も昔はもう少しリアルなひょうたん型だったような気がします、、、。(2000年夏詠)
てんと虫真中の星を割りて翔つ
自分では似せているつもりは無いだろうから責任はないのだが、テントウムシに大きさも形も似たテントウムシダマシという虫がいる。テントウムシはアブラムシを食べる益虫だが、こちらは葉っぱを食べる害虫らしい。違っているのは背中の模様で、ダマシのほうは大きく広がったシミのような模様がついている。テントウムシは小さな粒の揃った七つの星が左右対称に配置されている。即ち一つは中央の羽の合わさる場所についており、観察しようとしたら見事に割れて飛んでった、というだけのことですが、いらないことを長々と書いてしまいました、、、。(2000年夏詠)
早苗饗の皆皺ふかき顔ばかり
田植が終ったお祝いに近所が集まって行う宴が早苗饗(さなぶり)です。これを作州地方では代満(しろみて)と言います。備中地方ではなんと言ったのか、子どもだった私には記憶がありませんが、楽しい行事であった事は記憶しています。ちょっとしたお祭りで、当番になった家にみんなが集まり、食べたり飲んだり、時には公民館で借りてきた映画が上映されたこともありました。私の田舎にも、大人も子どもも大勢いたころのことです。今は、、、。(2000年夏詠)
神木の真実枯れて梅雨茸
小さな神社の狭い境内に大木が何本も生えている。ご神木になっているため伐採も出来ず、走り根に走り根が重なり、歩くのもままならない。そんな境内の一隅に、雷でも落ちたのだろうか、幹が大きく裂け、高い位置に洞の出来た杉の古木があった。傷んではいるものの、枝には緑の葉をつけ、それなりにご神木の風格が感じられた。掲句の年、境内の一本の走り根に沿って、多量の梅雨茸が生えているのを見つけた。走り根を辿っていくとその古木に行き当たった。見上げると枝は緑を失い、既に生気は感じられなくなっていた、、、。(1999年夏詠)
めまとひを払う手つきも疲れきし
夕刻のまだ暑さの残っている時に散歩に出ると、やたらとめまといに付きまとわれることがある。それも疲れている時にかぎって多い。さらに言うと同じ道の同じあたりで付きまとわれる。これだけ重なると、さすがにいい加減にしてくれと言いたくなってくる。最初はせっせと払っていた手も、そのうち回数が減り、動かなくなってくる。向うを見ると、同じような手つきの人がやって来る、、、。(2012年夏詠)
子蟷螂構へし鎌の薄緑
掲句の蟷螂は生れてしばらく経った蟷螂。生れたばかりの蟷螂は1センチメートルほどの白い半透明の身体をしている。もちろん鎌も半透明で、いわば竹光のようなものだ。動きも遅い。先日偶然に玄関の外の柱の上部に付いていた卵から生れてくる蟷螂を見た。まだ卵のところで動かないもの、地に落ちて移動しているもの、柱を伝って下りてくるものと、すでにさまざまな方向で生きようとしている。柱を下りてくる一匹が目の前まで来た時、柱の背割りの隙間から小さな蜘蛛が現れ、あっという間に糸をかけて、柱の隙間に持ち込んでしまった。その間ほんの4秒ほどだったろうか。これが自然というものだろう。一時間ほど過ぎてもう一度見ると、あれだけいた子蟷螂の姿は完全に消えていた。何匹が安全な場所に移動出来たのだろうか。もっともその子蟷螂も一人前になるには何十匹もの他の虫たちをその鎌の餌食にするのだろうが、、、。(2000年夏詠)