後で調べてみたら、狩猟は11月15日の日の出の時刻に解禁されるようだ。即ち、ちょうど散歩の時刻になる。寒くなり、しだいに増えていた鴨が、この音でしばらく姿を消してしまう。ほとんどが一時避難し、何羽かが犠牲になるのだろうが、その何羽かを思うと辛い。(2011年冬詠)
カテゴリー: 2011
晩秋のいつもどこかに青けぶり
晩秋の晩秋らしいのは、やはり夕方の農村風景ではないでしょうか。掲句は昨年詠んだものですが、今年は毎日歩いているので、ことさらそう思います。広く続く田圃の遠くに青煙が上り、ぽつんと人が動いている。毎日の、そんな風景、、、。(2011年秋詠)
お喋りをしたく鶺鴒寄り来る
鶺鴒は長いサラリーマン生活の中で、最も親しかった鳥かも知れない。会社の通用口の廂や屋根の隙間によく巣を作った。鶺鴒の寿命がどれくらいなのか知らないが、定年までには何世代も代替わりし、そのうち私の顔も覚えたのかも知れない。ずいぶん近くまで寄ってきてお喋りをして行った。ある年一羽の鶺鴒が通路に死んでいた。まだ新しかったが車も通るところなので、拾って片付けた。それをどこかで見ていたのだろう、しばらくの間私は悪者としてしきりにまとわり付いて責められた。(2011年秋詠)
月光を入れて寝る癖むかしより
雨戸もカーテンも、出来るだけ開けて眠ります。理由は朝起きた時に、光の量でだいたいの時間がわかることです。おまけが月光です。月齢、季節、天候と、この三つが揃うことは一年を通してもそうたくさんはありませんが、揃うと素敵な眠りのひと時が得られます。時々は夜中に月光を感じて目覚めることがあります。これも気持ちの良いものです。朝の光と違い、またいつの間にか眠ってしまいます。月光は眠りを、日光は目覚めを誘う光と言えるかも知れませんね。(2011年秋詠)
灯を落し生家まつくら虫時雨
ひと通り片付けを済ませ、生家を出ようとした時はもう夜中だった。「先に出てよ」と兄弟たちを外に出し、順番に灯を落していく。「いい?消すよ」声をかけて玄関の灯を落すと、途端に真っ暗闇になった。手探りで玄関に鍵をかけ、「お疲れ様」と兄弟たちを送る。順番に車が発車してしまうと、一人虫時雨の闇の中に取り残されてしまった。周囲に家が無いわけではないが、人の居ない家はほんとうに暗い。車まで、また手探りで虫時雨の中を歩いた。(2011年秋詠)
鉄橋を渡る一両秋の声
院庄駅を発車した一両だけの列車は、ゆっくりと速度を上げ、やがて吉井川の鉄橋へとさしかかる。コトコトウィーン、コトコトウィーンと聞えていた音に、ガタゴトガタ、ガタゴトガタと鉄橋の音が加わる。渡りきったあたりで、遠くの踏み切りに人影でも見えたのか、プアーンと間延びした警笛を鳴らし、その鳴らした音と一緒にコトコト、コトコトと遠ざかって行った。(2011年秋詠)
雲が雲追ひ越して行く野分あと
暴風が去りかけた空を見ると、雲が何層にもなっているのが見えることがある。はるか上層にはすじ雲が青空を分けるようにあり、下層にはちぎれた黒い雲が、重なって見える。その黒い雲も何層かになっていて、気流の関係だろう、下層の雲が上層の雲を追い越して行くように見える。ちょうどあの辺りに前線があるのだろうと、テレビの天気予報で動いていく前線を想像したりする。(2011年秋詠)
川音ではかる水量秋出水
家ニ軒と土手を挟んで吉井川という場所に住んでいる。土手があるので、二階からも水面までは見えない。大丈夫と思いつつも、大雨の時は水量が気になる。傘をさして見に行くことはあるが、それも叶わないほどの降りの時や夜間には、水音で判断する。だんだんと激しさを増してくる水音は不気味だが、どうすることも出来ず、開き直ってテレビでも見ているほかはない。(2011年秋詠)
俳人や上見て残暑あびてをる
手帳を片手に、なにやら難しそうな顔をして、上のほうばかり見ている。時折独り言をつぶやき、手帳になにやら書きとめている。こういう人はたいてい俳人です。(2011年秋詠)
涼風の一閃音の消えしごと
倉敷吟行での句。阿智神社の蝉音の中を独り彷徨っていると、突然風が吹いた。長い石段を登り汗ばんだ身体が一瞬涼しくなった。頭の中が空っぽになり、周囲の音が消えたような感じがした。(2011年夏詠)