退屈な塩辛とんぼ寄つて来い

蜻蛉の中で一番馴染みのあるのは、やはり塩辛とんぼではないでしょうか。見かけるのも良く見かけますし、蜻蛉自体もからかっているのだか、からかわれているのだか、近くへ寄って来ることが多いですね。とまっている蜻蛉に指をぐるぐる回して、頃合を見計らって、捕まえようとするとするりと逃げる。しばらくするとまた同じところに戻ってくる。やはりからかわれているのは人間のほうでしょうね。(2011年秋詠)

夏明や隣家にコップ洗ふ音

目覚めれば朝のしじまの中に、水道の音と、コップの触れる小気味のよい音が、昨夜の宴の名残りのように続いている。気持ちの良い朝の目覚めだ・・・。子どもの頃の夏休みの朝は、母が台所で胡瓜を刻む音で目覚めた。食卓に胡瓜の無い日はなかったなあ。(2011年夏詠)

ドップラー効果蝉音の下行けば

ピーポーピーポーと救急車が近づいてきて、目の前を通り過ぎると途端にピーポーの音の高さが変わりませんか。あれをドップラー効果と言います。近づいてくる物から出る音は高く、遠ざかる物から出る音は低く聞えるのです。蝉音にドップラー効果なんて在る訳はありませんが、ニイニイ蝉の鳴いている木の下を通ると、そんな気がしませんか。(2011年夏詠)

手を上ぐるだけのあいさつ朝涼し

私より十才ぐらい上だろうか、同じ町内のKさんの家は、私の散歩コースから間に田圃一枚置いたところにあり、庭にいるKさんの姿がコースから見える。退職された当時は毎日のように姿が見えたが、このところ腰痛とかで見かけることがめっきり少なくなった。久しぶりに見かけたKさん、こちらに気付いたようなので手を上げると、以前と同じように笑顔で手が上がった。どうやら元気を取り戻されたようだった。(2011年夏詠)

声大き隣家の教師夜の秋

都会ではこうも行かないだろうが、片田舎の夏の夜はもっぱら網戸での生活となる。川に近いせいか、心地よい夜風が入ってくる。夜風も入ってくるが、隣家の声も入ってくる。ま、これも風情の一つだろう。隣家あってのことである。(2011年夏詠)

暑いねと言うて暑さを貰ひけり

なんてことはないんだが、「暑いですね」と言われると他に挨拶の言葉も無いので、つい「暑いですね」と答えてしまう。次の言葉が続かず、途端に首筋の後あたりから、どっと暑さが溢れてくる。そんな事ってありませんか。(2011年夏詠)

ソーダ水句にしてすでに遅きこと

7月も今日で終り、早いものですね。だんだんと年月の経過が早くなるのは、生きてきた人生の長さと一年の長さとの相対的な関係によるものだと思っていましたが、どうもそうではないらしい。年齢と共に記憶のシャッターを切る回数が減って、出来事を飛び飛びにしか記憶出来なくなるかららしい。ようするに、記憶の枚数が少ないから、だからそれを再生しても、一年なんてあっと言う間に終ってしまう。しかもソーダ水の泡のように、ちっちゃな記憶は消えて行くという、寂しい話、、、。(2011年夏詠)

水打つて路地の朝の動きけり

倉敷の美観地区へ行くと、入り組んで路地がたくさんある。だいぶ慣れたが、完全とは言い難く、何度も同じところへ出たりする。行き止まりの塀の上を猫が歩いている、なんていうのもご愛嬌だ。路地には水が打たれ、軒を連ねる観光客相手の店では朝の準備が始まっている。(2011年夏詠)

七夕や音なく滑る月の舟

地理的に言うと私の生家は、星の里美星町から山ひとつ越えたところにあります。同じように星のきれいなところです。縁台に寝転んで夏の夜空を見ていると、幾つも幾つも流れ星が見えます。天の川は山上から山上へ、ゆったりと流れています。そんなところで少年期を過ごしましたから、何度も星空の夢を見ました。それも、星空のかなたから何艘もの船が現れたり、夜空に光で文字が書かれていたりする、総天然色の突拍子もない夢でした。その同じ夢をくり返し見るのです。さすがに今は見ることが無くなりましたが、時にはこんな句も作ってみたくなるのです。(2011年夏詠)