パンパンと打つ拍手に秋気澄む

信心深いわけではありませんが、神社に行けば柏手を打ってお祈りをします。持ち合わせがあればお賽銭も少しは出します。額よりもお願いすることのほうが多いのはいつもの事ですが、秋になると柏手の音もよく響いて、なんだか願いが叶うような気になるのです、、、。(2015年秋詠)

指太きカレーの市民石榴の実

子供の頃近所に一軒だけ柘榴の木がある家がありました。急な坂を這うようにして上ったところにある家で、同年代の子供もいなかったので滅多に行くことは無かったのですが、たまたま行った時に熟れた柘榴を頂いたことがあります。後にも先にも一回こっきりで、以後あまり食べた記憶が無いのが柘榴です。掲句は倉敷大原美術館、なぜ突然柘榴の実が出て来たのか、これは一年前の事なのに記憶がありません、、、。(2015年秋詠)

廃屋の裏を覗けば烏瓜

ここに引っ越した時にはもう住む人が居なかった近所の家、立派な農家の建物で、時々は戻って来られるらしく人の姿を見る事もあった。それからもう三十年、新築だった我が家も古びてしまったが、この近所の家はとうとう今年崩れてしまった。掲句は昨年、表よりももっと傷んだ家の裏で唯一華やいだ色を見せていたのが烏瓜の赤だった、、、。(2015年秋詠)

スケッチの指先秋を線として

スケッチをしている人を見かけると、失礼とは思いつつ、つい覗き込みたくなってしまう。逆の立場だったらスケッチどころではないだろうと思うのですが。掲句、阿智神社の石段を上ったところで見かけた男性。指先からどんどん秋が生まれてくる、、、。(2015年秋詠)

大木の下に日の斑の黄落期

落葉が始まった木の下、上を見れば色づいた葉の間に太陽がまぶしい。下を見ればその光が残る葉の影を斑模様に見せている。日毎にその葉の影が減り、光の面積が増えて行く。やがて葉の影が無くなり、枝だけが影となる頃には、光も勢いを落としている、、、。(2015年秋詠)

弥陀堂の奥まで差して秋夕日

秘仏公開に誘われて立ち寄ったお寺、本堂の手前の一段高いところに阿弥陀堂があった。お寺自体が山の上にあり、さらに阿弥陀堂は西向きで、秘仏の見学後に立ち寄った頃には沈みかけた夕日から堂の奥まで光が差していた。振り向けば夕日、前には光に浮かぶ阿弥陀様、なんとも美しい光景だった、、、。(2015年秋詠)

秋灯下千手観音ゆび細く

道端に出ていた「開山千三百年秘仏公開」の文字に誘われて立ち寄ったお寺。すでに日の傾きかけた時刻、他に参拝者は無く、その日担当の檀家の方だろう、興味本位で立ち寄った私に丁寧に説明してくださった。秘仏公開とは言え、古い建物の薄暗い本堂の中、あまり細かいところまでは見えなかったのですが、、、。(2015年秋詠)

秋時雨さつさと仕舞ふ老釣師

何度か登場していただいた老釣師、久しぶりにその姿を川向うに見つけた。声をかけるには川幅があり過ぎるので会釈だけして通り過ぎた。少し行ったところで、そんな空ではなかったのに、いきなりパラパラと降ってきた。もう時雨の季節。そう続くとは思わなかったが急いで散歩を切り上げた。雨はものの五分も続かなかったが、通りがかりに川向うを見るともう老釣師の姿はなかった、、、。(2015年秋)

意味の無き声の零れてそぞろ寒

なんだかんだ言っているうちに秋も終盤に入って来ました。朝の散歩は寒いぐらいで、ついポケットに手が入ってしまいます。掲句、昨年のそんな頃の句、いったい何の声だったのだろうかと、、、。(2015年秋詠)

秋深しベンチに語る老夫婦

西川緑道公園での景。朝の日差があふれるベンチ、二人の間にはサンドイッチと湯気をたてている飲物、静かに語り合いながら、まるで自宅の庭に居るかのような雰囲気の食事風景。公園が身近に、日常に溶け込んでいるように思えて、羨ましい景ではあった、、、。(2015年秋詠)