蜩の山より風が吹いてくる

合宿の初日は、休み中の怠惰な生活が祟って、いつもひどいものだった。食事も喉を通らず、休み中の生活を後悔しながら、這うようにして練習をした。そして、一日の練習を終え、グランドの整備が済んだ頃には夕風が立っている。夕日が見える小高い位置に置かれたベンチに座り、蜩の声に包まれて飲む一本のコーラの、何と美味しかったことか、、、。安東次男の<蜩といふ名の裏山をいつも持つ>の句を知った時、私は瞬時にこの合宿の蜩を思い出した。安東次男が津山市沼の出身と知ったのは後のことだが、次男が詠んだ、いつも心にあった蜩とは、まさにあの蜩だったのである、、、。(1998年秋詠)

急カーブ突然秋の海がある

八月も終りに近づくと、いつも焦燥感にとらわれていた。何がやりたかった訳でもない。やらなければならない事があった訳でもない。なのに、焦燥感にとらわれてどうしようもなかった。そんな日々に終止符を打ち、覚悟を決めて夏合宿に出かけるのがこの頃であった、、、。掲句とは何の関係もありません、、、。(1999年秋詠)

法師蝉やがてシンクロして止まる

一匹が「ツクツクオーシ、ツクツクオーシ」と鳴きだす。少し遅れて別の一匹が同じように「ツクツクオーシ、ツクツクオーシ」と鳴きだす。しばらくは同じリズムで輪唱のように二匹の「ツクツクオーシ」が続く。しばらくすると疲れてくるのか、一方の声が少し遅れてくる。するともう一方も同じように遅れてきて、しだいに「ツクツクオーシ」が重なってくる。完全に一致したところで声は「ジジジジジー」と細くなってどちらも鳴き止む。鳴き止むと次の木に移り、また「ツクツクオーシ」が始まるのである、、、。説明が無いとわからないような句はダメですね、、、。(2011年秋詠)

秋めくや洋灯の宿に古箪笥

久世にランプを見せてもらえる旅館があると聞いて寄ったことがあります。残念ながらもう営業されていないのか、ホームページも消えているようです。実用的なランプから、装飾に技巧を凝らしたランプまでありました。ほんのきまぐれで寄っただけなのですが、暗くした古い二階の和室へ通され、一番見事なランプをわざわざ灯してくださいました。火を点けた時に、やさしく広がって行くランプの明かりは素敵です、、、。これも演出の一部なのでしょうか、古箪笥が、、、。(2001年秋詠)

仁王門過ぎて百段秋暑し

昨日の続きです。仁王門からさらに百段ほどの石段が続きます。足には自信がありますが、さすがにこの百段はきつく、暑いだけで虫時雨を聴く余裕はありませんでした、、、。という、つまらない落ちです、、、。<余談>精進料理のお店は参道を挟んで二軒あります。食べ比べたことは無いのに、最初に美味しいからと連れて行ってもらったほうのお店ばかりに行ってしまいます。これってなぜでしょうね、、、?(2009年秋詠)

仁王門までの百段虫時雨

鳥取の郊外にある摩尼寺での句。寺の石段にかかる手前に精進料理のお店があります。実はその料理が主たる目的で、何度か寄ったことがあるのですが、摩尼寺の本堂まで上ったのはこれが二回目です。もちろん、先に精進料理をいただいて、腹ごしらえをした後です、、、。石段にかかる手前には参拝者用に杖が用意されています。それだけ長く急峻な石段が続きます。もちろん、私は使いませんよ。覚悟して上ります。両側にある石灯篭や杉の巨木を見ながら、虫時雨の中を一歩ずつ上って行きます。百段ほど石段を上ったところに仁王門があります。少し平地になっており、置いてあるベンチで一休みです。水を持っていて良かったと思った瞬間でしたが、目の前には本堂へむけて、次の石段が見えているのです、、、。(2009年秋詠)

溝萩や御堂に古き石香炉

道路が出来るという話で移転し、建て替えられた大師堂。建物は集会所を兼ねた今風になったが、傍にはお決まりのように溝萩の花が植えられ、今を盛に咲いている。コンクリートを打った軒下に、風化した花崗岩で出来た四角い香炉と思われる物が置かれている。前の御堂にあった物を移転したのだろう、年代物の古びた石の表面には「世話人雲州亀松」の文字が読める。以前に聞いたことがある、古くから出雲と関わりがあった土地、という話を思い出した、、、。(2012年秋)

走馬灯ふすまの影もまはりけり

夜の田舎道を走っていると、時々軒下に明々と吊るされた新しい盆提灯を見ることがある。そのお宅を知っているわけではないが、何度も走っている道だから、何となく新しく盆を迎えたお宅と感じられる。後の明々と灯された座敷にはきっと走馬灯が回っているのだろう、華やかに、そして静かに、、、。(2008年秋詠)

無遠慮な保険外交秋暑し

外交員なのだから図々しく押していかないと契約が取れないのはわかるが、程度が過ぎると話をするのが嫌になってくる。社員食堂の昼食時間には入れ替わり立ち代り保険の外交員が来た。地道に人脈を作り、長年訪れた外交員もあったが、多くはすぐに消えて行った、、、。(2001年秋詠)