家と家のすき間を抜けると交差点に出る。幅の半分ぐらいは水路で、通れるのは徒歩か、自転車か、せいぜいバイクまでという、いつもの短い路地です。この路地にはいくつも句を貰いました。そんなありがたい路地の片側、塀際の柿の木の下に忘れられたように植えられている八手です、、。ある日私のバイクの後をついて来て、私の後から迷わず路地に入って来られた軽四がありましたが、案の定抜けられず脱輪されてしまいました。「急がば回れ」、知らない方でしたが気の毒でした。(2010年冬詠)
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凍雲や直線で切るビルの空
歩きなれた良く知った街は下を向いて歩くことが多い。よく知らない街は上を見て歩くことが多い。中途半端だと、上を見て歩きながら他の事を考えていたりする。掲句は岡山駅西口から句会場へ行く途中で出来た句です。合歓の会へ参加した年で、周辺を何回か歩いたぐらいの中途半端な頃だったなあ。(2008年冬詠)
日本海水平線まで冬の雲
ず~っと昔、一泊忘年会で鳥取の海辺の民宿へ行ったことがあります。仕事が終ってから出発しますから現地に着くのは結構な時刻です。着いたらすぐに風呂、蟹尽くしの宴会と続いて、後は寝るだけ組か、麻雀組かになります。翌日は重たい頭を抱えて港へ、お決まりの魚市場での買物、海を見ての帰途となります。雪がちらつく寒い日でした。初めて見た冬の日本海は、黒く低い雲が水平線まで垂れ込め、押しつぶされそうな感じを受けました。ああ、これが日本海側の冬の暮らしなのだと思いました。・・・掲句は海の写真を見ていてその時を思い出した時の句です。(1998年冬詠)
ふり返る窓にわが顔暮早し
外を見ようとして振り返ると、すでに外は暗く、窓硝子には自分の顔が映っていた。顔は中途半端に汚れた硝子にデフォルメされ、哀れに疲れて見えた。慌ててブラインドの紐を引いた。(2010年冬詠)
短日やまたため息の女子社員
もう十二月になってしまいました。早いものです。去年の十二月はほとんど四国で過ごしました。たまに津山へ戻っても、すでに会社の中は空っぽで、そんな中での仕事でした。いつもは饒舌な女子社員の口も滞りがち、またしてはため息が漏れるのです。今月で無職になるのですから、仕事が空けば不安がよぎるのは無理のないこと、まして大学生と高校生の子を持つ彼女には、、、。そんな彼女から先日うれしい電話がありました。「やっと仕事が決まり、報告の電話ができることになりました、、、。」それから何分間話したことでしょう。相変わらずの饒舌ぶりに、私も負けないように必死で対抗しました。かつてのように、、、。次の会社では、ちょっと控えめにしてね。私のように我慢強い上司はいないと思うから、、、。(2011年冬詠)
霜晴やジェット機雲を育てつつ
「霜晴の一直線の寒さかな」についてのコメントありがとうございました。いろいろ考えてみましたが、良い案が浮ばず、近詠句に置き換えました。これも空が明るくなり、遠くの山の上に朝日が顔を出し始める頃でしたが、晴れた空に力強く伸びていく飛行機雲が印象的でした。そうそう、この雲も一直線でした、、、。(2012年冬詠)
大根をぬき身でさげて漢来る
よく晴れた、まさに小春日和の日、津山市二宮あたりの出雲街道を走っていました。出雲街道の中では比較的道幅も広く、ゆったりとした感じがする地域です。堂々とした体格の男が葉の付いた大根を刀のごとく提げ、真っ直ぐ前を向いて外股気味に歩いてくるのに出会った。という、ただそれだけのことです、、、。(2008年冬詠)
掃き寄する中にむくろの冬の蜂
いよいよ我家の落葉は山法師を残すのみとなりました。去年までは一面に散り敷いた一週間分の落葉を掃くのが休日の仕事でしたが、今年は毎日、落葉とおっかけっこをするように掃いてみました。掃いているうちに落ちてくる次の落葉をまた掃いて、これはこれで結構楽しいものですね。(2010年冬詠)
冬晴やゑびすの顔の鬼瓦
鬼瓦って言うぐらいだから、元々は厄除けの鬼の顔だったのだろうが、よく見るといろいろな鬼瓦がありますね。ちなみに我家の鬼瓦は「ガッチャマンです」と住宅メーカーの営業マンが言っていました。う~ん、そう言えばそうかなとも思いますが、ようするに安物です、、、。(2002年冬詠)
叱られし子に柊の花匂ふ
長年徒歩通勤をしたが、それは自分の歴史でもあるし、道すがらの家々の歴史でもあります。通りかかると「おっちゃん、おはよう」と言ってくれた幼稚園の女の子は、高校生になり、やがて子どもを抱いて里帰りをした姿を目にするようになりました。貰われてきたばかりだった子犬は、うるさい犬に育ったが、やがて年老いて眠るばかりになってしまいました。柊のある家の叱られてばかりいた男の子は、いつの間にか見かけなくなってしまったなあ、、、。(1999年冬詠)