手を上ぐるだけのあいさつ朝涼し

私より十才ぐらい上だろうか、同じ町内のKさんの家は、私の散歩コースから間に田圃一枚置いたところにあり、庭にいるKさんの姿がコースから見える。退職された当時は毎日のように姿が見えたが、このところ腰痛とかで見かけることがめっきり少なくなった。久しぶりに見かけたKさん、こちらに気付いたようなので手を上げると、以前と同じように笑顔で手が上がった。どうやら元気を取り戻されたようだった。(2011年夏詠)

空の色変はらず在りし原爆忌

昭和二十年、母は岡山の天満屋で働いていた。空襲があったのがその年の6月29日、たまたま実家(現総社市)に帰っていて難を逃れた。実家からも岡山の方角の空が真っ赤に見えて恐ろしかった。あのとき帰っていなかったらお前たちは生れていなかったのだと、幼い頃の寝物語に何度も何度も聞かされた。広島に原爆が投下されたのはそれから38日後のことになる。(1998年夏詠)

声大き隣家の教師夜の秋

都会ではこうも行かないだろうが、片田舎の夏の夜はもっぱら網戸での生活となる。川に近いせいか、心地よい夜風が入ってくる。夜風も入ってくるが、隣家の声も入ってくる。ま、これも風情の一つだろう。隣家あってのことである。(2011年夏詠)

余所者と知れば藪蚊の寄り来る

虫たちも人間を観察している。と、思うのは私だけでしょうか。だから私は藪蚊にしろ、他の虫たちにしろ、負けないように大きな顔で対応してやることにしています。空家になった実家に帰ると、今まで自由に暮らしていた庭の虫たちが、「変なやつが来たぞ!」といっせいに逃げ出すのです。「馬鹿なことを言うんじゃあないよ、お前たちよりよっぽど昔に住んでいたんだから」と言ってやります。(2009年夏詠)

夏河原骸となりし物臭ふ

夏の河原を歩いていると、どこからともなく死臭がしてくることがあります。それは子どもの頃から何度も経験してきたことなので、だいたいどんな動物なのか想像がつきます。特に蛇は、言葉では表せませんが、独特の死臭でそれとわかります。問題はわからない臭いで、夏の生い茂った草の中から得たいの知れない臭いがしてきた時には、身構えることになります。まさか、人の死体ということはないでしょうが、、、。(2008年夏詠)

暑いねと言うて暑さを貰ひけり

なんてことはないんだが、「暑いですね」と言われると他に挨拶の言葉も無いので、つい「暑いですね」と答えてしまう。次の言葉が続かず、途端に首筋の後あたりから、どっと暑さが溢れてくる。そんな事ってありませんか。(2011年夏詠)

ソーダ水句にしてすでに遅きこと

7月も今日で終り、早いものですね。だんだんと年月の経過が早くなるのは、生きてきた人生の長さと一年の長さとの相対的な関係によるものだと思っていましたが、どうもそうではないらしい。年齢と共に記憶のシャッターを切る回数が減って、出来事を飛び飛びにしか記憶出来なくなるかららしい。ようするに、記憶の枚数が少ないから、だからそれを再生しても、一年なんてあっと言う間に終ってしまう。しかもソーダ水の泡のように、ちっちゃな記憶は消えて行くという、寂しい話、、、。(2011年夏詠)

鳴く声の数ほどあらず蝉の殻

気候の差によるのだろうか、岡山県内でも北部と南部では真夏に鳴く蝉が異なる。県北ではアブラゼミが主流であるが、県南に行くとクマゼミが主流となる。どのあたりが境になるのだろう。わが故郷成羽ではアブラゼミだった。岡山市津島にある運動公園ではクマゼミとなる。中学生の夏に登った天神山(高梁市)で初めてクマゼミの声を聞いた記憶がある。どちらも暑そうな声に変りはないが、アブラゼミのほうが少し優しいかな。(2008年夏詠)

広重の雨脚見ゆる夕立かな

安藤広重の浮世絵「東海道五十三次之内 庄野」は、庄野宿(現在の鈴鹿市庄野町)付近の夕立の絵です。雨の中を急ぐ人物が活写されていますが、雨もまた見事です。広重の東海道五十三次は、永谷園のお茶漬け海苔で覚えました。五袋ぐらい入りのお茶漬け海苔におまけで付いていた名刺より少し大きいぐらいのあれです。何度挑戦しても、半分も集まりませんでした。(2009年夏詠)