無遠慮な保険外交秋暑し

外交員なのだから図々しく押していかないと契約が取れないのはわかるが、程度が過ぎると話をするのが嫌になってくる。社員食堂の昼食時間には入れ替わり立ち代り保険の外交員が来た。地道に人脈を作り、長年訪れた外交員もあったが、多くはすぐに消えて行った、、、。(2001年秋詠)

一角の秘密基地めき葛の花

葛の繁殖力には恐ろしいものがありますね。大きな木もいつの間にか自分の物にしてしまう。木から木へ移り、下にぽっかり空間が出来ている。秘密基地にちょうどいいなと思ってしまった、、、。男の子に秘密基地は付き物だった。こういう自然に出来た空間はもちろんだが、自分たちで穴を掘って秘密基地を作ったことがあった。数人がかろうじて入れる穴の中に、てんでに家から盗んできた食料を持ち込み、これまた仏壇から持ってきた蝋燭を灯して遊んだものだが、大人に気付かれると次の日には基地は消滅した。今思えばずいぶん危険な遊びだったが、面白さはTVゲームの比ではない、、、。(2010年秋詠)

蜩や庭の続きに父祖の墓

実家の裏手にある古い墓地、石を置いただけの物を含めると全部で二十基ぐらいだろうか、一番新しいもので明治の年号が読み取れる。それ以降は別の墓地へ眠っている。掲句、この年までは父が元気だった。帰省して、墓参りをして、何となく詠んだ句だが、翌年からは自分で掃除をすることになった。蜩どころでは無くなってしまった、、、。(2002年秋詠)

新涼や路地に母呼ぶ幼声

長いサラリーマン生活のほとんどを、同じ時刻に同じ道を通り、同じ路地を抜けて会社に通った。長い年月の間には、畦道が立派なアスファルトの直線道路になり、やがて周辺が宅地へと変わって行った。新しい家が建ち、新しい人々の営みが始まった、、、。よくよく考えてみると、徒歩20分の通勤路で、ほとんどの道が変わって行った。唯一変わらなかったのがこの路地だったように思う。もちろん、住んでいる人は歳をとり、子どもたちは巣立って行ったが、、、。(2001年秋詠)

新涼や子の駆けて行く登校日

自分が小学生だった時の登校日ってどうだったろう?と、思い出そうとするのですが、これがさっぱり覚えていないのです。なかったはずは無いのですが、、、。そして、夏休みで覚えていることと言えば、最終日に必死で宿題をしたことです。今年こそはと最初の二三日は思うのですが、気が付けば、、、。(2000年秋詠)

川底に光る魚影や原爆忌

今年も原爆忌がやって来ました。記事は前倒しで書いていますので、実際のところの当日の天候はわかりませんが、私が八月六日を意識するようになってからというもの、なぜか晴天の日が多いのです。いつ意識するようになったかと言うと、恥ずかしい話ですが、俳句を始めて歳時記に「原爆忌」を見つけてからです、、、。生まれ育ったのはまだ実生活の中に戦後があった頃です。もちろん原爆の恐ろしさもくり返し聞かされた筈なのですが、記憶の中にはなぜか、ほとんど残っていないのです、、、。(2002年夏詠)

白よりも白き峰雲立ちにけり

本当の白さとはどんな色だろうと思うとき、夕日を受けて立ち上がる峰雲の白さが浮かぶ。白い雲の上にさらに白い雲が重なり、究極の白に近づいているように見える。では、雪の白さと比べてどうなんだろう、と考えてみるが、残念ながら峰雲と雪を並べて見た事が無い。雪の残る夏山に登れば見えるだろうか、、、。(2010年夏詠)

朝の蚊に足裏刺されし悲しさよ

皆さんは足の裏を蚊に刺されたことがあるだろうか。なんとも情けない嫌な痒みなのです、、、。私の古い友人に、熊のように脛毛が濃い男がいました。どれくらい濃いかと言うと、血を吸おうとやってきた蚊が、もじゃもじゃの毛の中に絡まって出られなくなるのです、、、。(2013年夏詠)