空つぽの看護婦詰所春ともし

少し灯を落とした長い廊下の向こうに、煌々とした灯りを見せて看護婦詰所がある。父の病室はそこからさらに数部屋むこうになる。通りがかりに看護婦詰所を覗くと誰も居なかった。病院の夜の廊下に、昼間の喧騒は無い、、、。(2003年春詠)

うたた寝の父のおとろへ春時雨

子どもから見れば、私は強い父だったのだろうか。父親らしい父親だったのだろうかと自問してみることがある。昔、周囲に大人が溢れていた頃、若い父はどこの大人よりも立派に見えたものだった、、、。それも昔、そんな父が余命一ヶ月となり、病院の個室に横たわっている。少し起したベッドで、無防備にうたた寝をしている。こんなことは無かったのに、、、。そんな父の横で、窓を打つ雨を見ている、、、。(2003年春詠)

氏神の裸電球建国日

少し大きな神社になれば、日の丸が上がったり、建国記念日の行事があったりするのだろうが、宮司も居ない近くの小さな神社、参道に裸電球が吊り下げられており、時折昼間に点っていることがあります。消し忘れのようなそうでないような、林の中なので、なんとも不気味な感じもするが、建国記念日には合うような気がするから不思議、と思い詠んだ句です、、、。(2011年春詠)

丸まつて眠る男の子やヒヤシンス

子どもが学校から持って帰った出窓に似合う水耕栽培のヒヤシンス、こんなこともあったなあ、、、と思いながら詠んだ句。ある日突然に部屋に満たされる香りが、咲き始めた窓辺のヒヤシンスであると気付くまでの僅かな時間と、気付いた時の喜び、、、。(2003年春詠)

刃物屋の古里訛午祭

午祭ではありませんが、旧正月に行われる津山市の福力荒神社大祭は賑やかです。道という道に、時には道以外にも屋台が並びます。「蝮除けの砂」なんてのもあります。そんな中に見つけた備中鍛冶の店、訛でそれと判る故郷の人。声を聞くだけで懐かしい。しっかり稼げよと思うのだった、、、。(2011年冬詠)

堰一つありて一つの春の音

春になれば小川の水も増えて、それぞれの堰で、それぞれの音が聞こえる。そんな楽しみ、、、。今ブログを書いている部屋から道一つ隔てて水路があります。農業用水で一年中流れていますが、田圃に水の必要が無い期間は水量を落してあります。春になれば水量も増えて、ちょうど我家の境あたりにある堰から軽やかな音が聞こえるようになります。もう少しです、、、。(2011年春詠)

野火走る消防団員したがへて

後楽園の芝焼きであったり、若草山の山焼きであったり、いかにも春を迎えるのにふさわしい行事という感じがして、テレビでの報道を見る度に一度間近で見てみたいものです。こういう時にかり出されるのが消防団員ですが、火事ではないので余裕が見受けられますね、、、。近所の河原や土手が時々燃えることがありますが、これは煙草の火の不始末であったり、焚火の火が移ったりで、これはいただけません、、、。(2010年春詠)

朝日受く寒雲仏とも見えて

だいぶ日の出が早くなってきて、散歩の時刻にちょうど赤く染まった雲が見えるようになった。太陽はまだ山の向こうで、山は暗く、その上空だけが輝いている。そんな中で赤く染まった雲が、まるで仏像のように見えることがある。輝いた空がちょうど光背のようになり、なんとも神々しい姿に見えるのである。(2012年冬詠)