私は幼い頃は身体が弱かったので運動会は苦手だった。幸いもう一人遅い子がいたので、びりから二番目だったが、出来れば走る競技からは外れたいといつも思っていた。そんなだから、自分の子どもたちにもずいぶん心配したが、どうってことは無かったようだ、、、。(2002年秋詠)
カテゴリー: 2002
秋の暮女が残す旅鞄
意味深な句が残っていたので一句。記憶にない、、、。(2002年秋詠)
音たてて鯉が草食む秋の朝
何のこっちゃ、と言った句ですみません、、、。たまたま朝早く衆楽園に行く機会がありました。何年か前に池に鯉ヘルペスが発生して、今ではほとんど鯉の姿がありませんが、まだ大きな鯉がたくさん寄ってきていた頃です。池の周囲を巡っていると、岸辺でなにやら音がします。何だろうと覗いてみると、大きな鯉が何匹も岸辺に頭を出して、水際の草を食べているのです。池の周囲に何ヶ所かそういう光景が見られました。「へえ~、鯉も草を食べるんだ」と不思議な気がしましたが、これって、犬や猫が草を食べるのと同じような理由なのでしょうか、、、?(2002年秋詠)
伸びきつて畦に日を浴ぶ秋の蛇
蛇が好きな訳ではありませんが、田舎暮らしをしていると嫌でもお付き合いをしなければなりません。これは稲刈後の田圃の畦道の蛇です。蛇も秋が進むと暖かさを求めるようになります。昼間のほてりが残るアスファルトに暖を求めるのでしょう、朝の散歩では夜のうちに車に轢かれた蛇をよく目にします。そうそう、蝮の被害が多いのもこれからの季節と聞いたことがあります。野山の散策の際にはご注意を、、、。(2002年秋詠)
まつすぐに刈田横切り猫帰る
そろそろ稲刈が始まりました。見通しが良くなった田圃を縦断して、真っ直ぐに帰ってくる朝帰りの猫を見たときの句です。猫は本来夜行性の動物ですから、人間ならさしずめ夕方の帰宅と言ったところでしょう。一歩一歩新しい稲の切株を越えて来るゆったりした足取りには、満足の中にも多少の疲れが見えるのでした、、、。(2002年秋詠)
溝萩や途切れとぎれに下校の児
子供たちは朝の集団登校のような緊張感も無く、溝萩が咲いている田圃沿いの道を、道草をしながら自分のペースでゆっくりと帰って来ます。二学期になると日の暮れも早く、もう太陽は西の山にかかろうとしています、、、。(2002年秋詠)
二百十日伏せて干さるるゴムボ-ト
なんだかんだと言っているうちに九月になりました。二百十日です。今年はとゲリラ豪雨でずいぶん被害がありました。日本の気候は壊れてしまったのでしょうか?もうこれ以上災害がありませんように、、、。掲句は赤穂の城跡で見たゴムボート、なぜここに(?)と思った記憶があります、、、。(2002年秋詠)
蜩や庭の続きに父祖の墓
実家の裏手にある古い墓地、石を置いただけの物を含めると全部で二十基ぐらいだろうか、一番新しいもので明治の年号が読み取れる。それ以降は別の墓地へ眠っている。掲句、この年までは父が元気だった。帰省して、墓参りをして、何となく詠んだ句だが、翌年からは自分で掃除をすることになった。蜩どころでは無くなってしまった、、、。(2002年秋詠)
川底に光る魚影や原爆忌
今年も原爆忌がやって来ました。記事は前倒しで書いていますので、実際のところの当日の天候はわかりませんが、私が八月六日を意識するようになってからというもの、なぜか晴天の日が多いのです。いつ意識するようになったかと言うと、恥ずかしい話ですが、俳句を始めて歳時記に「原爆忌」を見つけてからです、、、。生まれ育ったのはまだ実生活の中に戦後があった頃です。もちろん原爆の恐ろしさもくり返し聞かされた筈なのですが、記憶の中にはなぜか、ほとんど残っていないのです、、、。(2002年夏詠)
夏帽子拡げてもらふミニトマト
さて、どこで詠んだ句だったろう?こんな句が残っていた、、、。(2002年夏詠)