柿もげば柿の冷たさ手の中に

子どもの頃にはよく柿採りをさせられた。学校から帰って姉と行くことが多かった。下から竹竿の先に割れ目をいれたもので採ったり、木に登ったりして採るのだが、木に登ると晩秋のこの頃は空気も冷たく、十分に冷えた柿は掌を冷やした、、、。今思えば、どうしてあんなに沢山の吊るし柿を作っていたのだろう?毎年窓という窓を塞いでしまうほどの吊るし柿を作っていた。それをきっちり消費していたのだから、、、。(1999年秋詠)

川舟の岸に干されて秋夕日

母の実家は吉備郡(現総社市)の草田というところだった。伯備線の日羽という無人駅(昔から無人駅だった)で降りて、渡し舟で高梁川を渡った。対岸に船頭さんのいる小屋があり、合図をして日羽側に来てもらっていたはずだが、どうやって合図をしたのか、記憶が定かでない。小さな舟にしゃがみこんで、舟縁を打つ波音を聞きながら、するすると川を渡って行く。舟の周囲には魚の群が見える。わずかな時間だったが、子どもにはスリリングな時間だった、、、。掲句の川舟は国道53号線を走っている時に見た旭川の川舟、、、。(1999年秋詠)

鰯雲検診車より吐出され

会社の健康診断はレントゲンと心電図の検診車、それに社内の空き部屋を使っての各種検査、最後に医師の簡単な問診と指導がある。医師は極端に若いか、現役を退いたようなお年寄りが多かった。何年も続けて同じ女性の老医師が来られたことがある。この方は、ご自分の人生経験を踏まえた、親切な若者を諭すような話し方で、好感が持てた。ある年特に相談したい事も無いので「先生、失礼ですけどお歳は?」と聞いたら「あなたねえ、レディーに歳を訊くものじゃあないわよ。八十を越えましたよ」と、笑いながらやさしく話された、、、。(1999年秋詠)

秋出水累々白き石の原

被害が出るのは困るが、一歩手前ぐらいの出水になると、河原に生えていた草も根こそぎ流され、溜まっていたごみも流され、きれいに洗われた石の原となる。流れや中州の形が少し変わり、新しく出来た湾処に水鳥が休んで居たりする。不謹慎ですが好きな風景です。心の中もこういうふうに時々洗い流せればよいと思うのですが、なかなか、、、。(1999年秋詠)

組体操少年秋の空にあり

組体操と言えばいつも一番上かその下ぐらいで、あまり楽しかったという記憶はない。最後に笛の合図で一斉に潰すのが組体操の見せ場だが、これは上のほうだったからか、痛かった記憶はない、、、。子どもの中学校の運動会が雨後のぬかるんだグランドであったことがある。こんな中で、と思うような中で組体操が進んで行き、見学席からは感嘆の声が上がっていたが、最後の笛と同時に上がったのはお母さんがたの悲痛な叫び声だった。退場門へ向かう子どもたちの体操服は一様に泥だらけだったが、子どもたちにとっては良い思い出になっただろう、、、。(1999年秋詠)

稲妻や闇夜に浮かぶ風見鶏

通勤途中に使われなくなった火の見櫓がある。かつては消防の器庫でもあったのだろう、錆びた鉄骨製の火の見櫓である。一番上に風見鶏がついているが、これも錆び付いているのか動いている気配はない。残業を終え、何となく怪しい雲行きを感じながら帰っていると激しい稲妻、見上げた夜の空に、くっきりとその風見鶏が浮かんだ。ちょうど稲妻に向かって鳴いているような形で、凛々しく見えた、、、。(1999年秋詠)

長椅子に寝て蟋蟀の近くなる

会社の所々に置かれている休憩用のベンチ、何となく横になってみたくて寝てみたら、耳のすぐ傍で蟋蟀の声が聞こえた。ああ、何と心地よいことよ、、、と、思う間もなくサラリーマンの性で起き上がっていた、、、。(1999年秋詠)

秋灯の塾次々と子を吐けり

通勤の途中に学習塾があった。自宅の離れを改造した個人経営の塾で、それほど大きくはなかったが、そこそこ実力はあるという評判だった。毎年受験シーズンの終りには、通りに面した壁に「○○大学合格一人」「△△高校合格十人」とその年の実績が貼り出されていた。残業をして帰る時刻がちょうど塾の終りの時刻に合うのだろう、通りかかると灯の点いた入口から次々に子どもたちが、ちょうど吐出されるように出てくるのである、、、。(1999年秋詠)

屋上に病衣はためき天高し

今はどうなのだろう。洗濯機や乾燥機も進歩し、病院もずいぶんお洒落になった。だから現在の病院には、こういう光景は無いのかも知れない、、、。病院の屋上は物干場になっていて、沢山の洗濯物が風にはためいている。カラフルとは言い難く、おおむね白が多かった。残った空間にベンチがいくつか置いてある。ベンチに座って眺めると、どこまでも青い秋の空があり、旅人のように雲が流れている。不思議と音の記憶はない、、、。(1999年秋詠)