てんとむし真中の星を割りて翔つ

七星天道虫の一番前の星はちょうど真ん中にありますね。小さくて、可愛くて、悪いこともしないので好きな虫ですが、手にとまらせるとすぐに飛立ってしまいます。真ん中の星はきれいに二つに割れます。中に畳まれていた薄い羽がきれいに開くのも面白いですね。(2000年夏詠)

七夕や音なく滑る月の舟

地理的に言うと私の生家は、星の里美星町から山ひとつ越えたところにあります。同じように星のきれいなところです。縁台に寝転んで夏の夜空を見ていると、幾つも幾つも流れ星が見えます。天の川は山上から山上へ、ゆったりと流れています。そんなところで少年期を過ごしましたから、何度も星空の夢を見ました。それも、星空のかなたから何艘もの船が現れたり、夜空に光で文字が書かれていたりする、総天然色の突拍子もない夢でした。その同じ夢をくり返し見るのです。さすがに今は見ることが無くなりましたが、時にはこんな句も作ってみたくなるのです。(2011年夏詠)

放たれて犬遠くあり大夏野

毎日の散歩コースの河川敷は、1キロメートルぐらいの区間に芝を植え、一度は公園として整備されたところだが、今は年に一二度草を刈られるだけで、次第に草原に変りつつある。整備された最初の年には、学区内の全町内会合同の運動会が開催されたほどのグランドや、ゲートボール場もあるが、ほとんど使われることはなく、犬を遊ばせるには絶好の場所である。そして私の日々の句作の場でもある。この句を詠んだのは、我家にまだ初代のプードルが健在だった頃、犬の代は変わったが、いまだに夏になると思い出す。良し悪しは別にして、自分では心に残っている句である。(2002年夏詠)

女郎蜘蛛しつかと空をつかみけり

竹竿の先に細い竹で団扇ぐらいの輪を作り、それに蜘蛛の巣をぐるぐると巻きつける。これで高いところの蝉を採るのですが、蜘蛛の巣の中でも女郎蜘蛛の巣が、強さでも粘着力でも一番良かった。そんな訳で、女郎蜘蛛には親しみを感じるのです。大きな体の鮮やかな黒と黄の縞模様で、頭を下に空中をしっかりと掴んだ姿は、風格すら漂わせているように感じられます。(2010年夏詠)

降りさうで降らぬまま暮れ半夏生

二十四節気七十二候のうち、夏至の三候。早く言えば半分夏の頃で、中途半端な私にはピッタリの季語かも知れない、なんて思いながら詠んだ初心の頃の句。おりしも梅雨明には間のある空もどんよりと中途半端でした。作った頃は仮名遣いも中途半端でしたが、それがここにあります。旧仮名にしておけばよかったと、今更ながら思うのですが、そうそうたる俳人の中に混ぜて頂くって、気持ちいいものですね。(1999年夏詠)

凌霄の遠目に暮るる里の家

凌霄花は農家の庭先によく似合う。これも通勤途中にあるお宅。不要になった電信柱に凌霄花を登らせ、登りきった凌霄花がさらに枝を張り、まるで一本の木のように丸ごと花に覆われた姿は圧巻だった。凌霄花を知ったのは俳句を始めてからだが、知ってからは毎年このお宅の凌霄花を楽しみにしていた。(1999年夏詠)

炎昼を運ぶ右足左足

暑い日でした。通用口を出て次の通用口までの僅かな距離がやけに長くて、なんでこんな日に外を歩くことを選んだのかと思いながら炎天下を歩いた時に出来た句。右足も左足も自分の足ではないようで、次は右、次は左と、自分に言い聞かせながら足を運んだ。まあ、俳句が詠めるぐらいだから、外で仕事をされる方に比べると、ずいぶん楽なんですがね。(2008年夏詠)

日に一句叶わぬことも心太

一日一句として年に三百六十五句。その中の、自分で俳句と思えるものが三分の一として、百二十二句。さらにその中で共感を得られるものが三分の一として、四十一句。これぐらいは残せるでしょうか。ところがどっこい、この一日一句、難しいですね。心太は好きでも嫌いでもありませんが、心太のように、押せばにょろにょろと俳句が出るような方法はないものでしょうか。(2011年夏詠)