春泥に一枚渡す板の橋

山も荒れているだろうと思いながら道を辿ると、昔から足元が悪かった場所に荒削りの板を渡しただけの簡単な橋が架けてあった。ああ、まだ山仕事をする人があるのだと、少し安心した。林業が盛んだった頃に整備された道も、今は歩くのもままならないような状態だが、そんな中に人の通った跡が続き、辿るとたくさんの椎茸の原木を並べた場所に出た。山の中でそこだけが明るく、たくさんの春子が芽吹いていた、、、。<その8>(2009年春詠)

休み田を分けて一条春の水

これは実家から少し山のほうへ行った風景です。昔は見上げるような山の上にも民家があり、棚田が続いていましたが、人が減り、民家も無くなり、かつての棚田もただの湿地になってしまいました。そんな湿地となった棚田の中に、長年の間に自然に出来たのでしょう、細い水路が一本次の田に続き、小さな水音をたてているのでした、、、。<その7>(2009年春詠)

春の川魚影たしかめつつ歩く

川と言っても小さな川ですが、それでも魚影は濃く、学校から帰ると日課のように釣に出かけました。小さな川は大雨が降ると川の流れまで変わり、釣のポイントも変わります。新しい大物も上って来ます。だから大雨が降ると水が引いた後の釣を楽しみにしていました、、、。昔と比べるとずいぶん流れが変わりましたが、ポイントの場所には面影が残っています。人影に驚いて逃げる魚影も見えます。歩きながら、もう釣竿も残っていないだろうなあ、なんて思うのです、、、。<その6>(2009年春詠)

過疎の村つなぐ電線鳥交る

あちらの家も一人、こちらの家も一人、そんな過疎の村の家と家を、電線が繋いでいます。賑やかだった昔と変わらず、、、。お坊さんの読経の中で眼をやった電線の光景、、、。<その5>(2009年春詠)

道なりに行けば墓あり里の春

田舎に行けばどこも似たようなものですが、それぞれの家にほど近い場所に墓地があります。私の実家の今使っている墓地は、家から三百メートルほど離れた場所にあります。家のすぐ裏手にも古い墓地があるのですが、こちらは私が生まれる前から満杯で、私の曽祖父からはこの離れた墓地に眠っています。墓地までは川沿いにカーブしながら道が続いています。天気が良ければその道を、それぞれ花やお供えを持ってお坊さんと一緒に歩いて行きます。行き着くまで車にも人にも会わないようなところです。雑音の一切ない静けさの中を流れる水音や小鳥の声を聞きながら、それぞれの歩調で歩いていきます、、、。<その3>(2009年春詠)

線香に咽る連鎖の春座敷

これはたまたま父の七回忌での光景ですが、こんな事ってよくありませんか?まだ戸を開けての法要には早い時季、気を利かせたつもりで向けた暖房のかげんで、お坊さんが一番に咽だして、やがてその煙が部屋中に漂って、あっちでもこっちでも、、、。<その2>(2009年春詠)

ふるさとの水音高し初蛙

出来る時は出来るし、出来ない時は出来ない。俳句ってそんな物ですね。だから出来る時に詠めばいいと思っていると気が楽です、、、。掲句は父の七回忌を終えてホッとしている時に鳴いた初蛙です。七回忌の前はさすがに気がかりで、思うように詠めませんでしたが、この初蛙の大きな声がきっかけで詠めるようになりました。この時の句を中心にまとめて、アンソロジー合歓Vol.3に「山ばかり」として出しました。既出の句もありますが、まだの句もありますので、それを少し書きます。<その1>(2009年春詠)

蔵街の大樽干せる日永かな

初めて句会に出たときの句です。今でこそ倉敷美観地区は行くことが多いですが、美観地区もこのときが初めてでした。倉敷川の流れや美術館前の人の数は今と変わらないと記憶していますが、その他はどうなんでしょう。とにかく夢中の一日で、覚えているところが少ないのです。この大樽もどこだったか、、、。(2002年春詠)

鉄塔に薄き日輪黄砂降る

近くにある高圧の送電線用の鉄塔を見上げると、ちょうど鉄塔の先に太陽がかかっていた。普段なら眩しい太陽が、くすんだ赤色に見え、周囲は汚れた黄色に縁取られて見えた。明るいはずの春の午後が何となく薄暗く、うそ寒い感じがした、、、。黄砂は昔からあったが、今ほど多くはなかったし、春になった証のようなものだと思っていた、、、。(2000年春詠)