峡の空狭し銀河の近かりし

以前にも書きましたが、私の実家は山と山に挟まれたところにあります。子どもの頃には街灯もなかったので、晴れた空には星が綺麗でした。峡を挟んで山から山へ、落ちて来そうな近さで銀河が流れ、涼み台に寝っころがっていると、いくつもいくつも流星が見えました。(2009年秋詠)

鬼やんまこの家の間取知るごとく

開け放った田舎の家を、鬼やんまが我が物顔に通り過ぎて行く。まるでこの家の間取を熟知しているかのように、堂々とした飛行だ。昔はよくあった風景だが、今はどうなんだろう。鬼やんまも少なくなっただろうな。(2009年秋詠)

手を上ぐるだけのあいさつ朝涼し

私より十才ぐらい上だろうか、同じ町内のKさんの家は、私の散歩コースから間に田圃一枚置いたところにあり、庭にいるKさんの姿がコースから見える。退職された当時は毎日のように姿が見えたが、このところ腰痛とかで見かけることがめっきり少なくなった。久しぶりに見かけたKさん、こちらに気付いたようなので手を上げると、以前と同じように笑顔で手が上がった。どうやら元気を取り戻されたようだった。(2011年夏詠)

空の色変はらず在りし原爆忌

昭和二十年、母は岡山の天満屋で働いていた。空襲があったのがその年の6月29日、たまたま実家(現総社市)に帰っていて難を逃れた。実家からも岡山の方角の空が真っ赤に見えて恐ろしかった。あのとき帰っていなかったらお前たちは生れていなかったのだと、幼い頃の寝物語に何度も何度も聞かされた。広島に原爆が投下されたのはそれから38日後のことになる。(1998年夏詠)

声大き隣家の教師夜の秋

都会ではこうも行かないだろうが、片田舎の夏の夜はもっぱら網戸での生活となる。川に近いせいか、心地よい夜風が入ってくる。夜風も入ってくるが、隣家の声も入ってくる。ま、これも風情の一つだろう。隣家あってのことである。(2011年夏詠)

余所者と知れば藪蚊の寄り来る

虫たちも人間を観察している。と、思うのは私だけでしょうか。だから私は藪蚊にしろ、他の虫たちにしろ、負けないように大きな顔で対応してやることにしています。空家になった実家に帰ると、今まで自由に暮らしていた庭の虫たちが、「変なやつが来たぞ!」といっせいに逃げ出すのです。「馬鹿なことを言うんじゃあないよ、お前たちよりよっぽど昔に住んでいたんだから」と言ってやります。(2009年夏詠)

夏河原骸となりし物臭ふ

夏の河原を歩いていると、どこからともなく死臭がしてくることがあります。それは子どもの頃から何度も経験してきたことなので、だいたいどんな動物なのか想像がつきます。特に蛇は、言葉では表せませんが、独特の死臭でそれとわかります。問題はわからない臭いで、夏の生い茂った草の中から得たいの知れない臭いがしてきた時には、身構えることになります。まさか、人の死体ということはないでしょうが、、、。(2008年夏詠)

暑いねと言うて暑さを貰ひけり

なんてことはないんだが、「暑いですね」と言われると他に挨拶の言葉も無いので、つい「暑いですね」と答えてしまう。次の言葉が続かず、途端に首筋の後あたりから、どっと暑さが溢れてくる。そんな事ってありませんか。(2011年夏詠)