ソーダ水句にしてすでに遅きこと

7月も今日で終り、早いものですね。だんだんと年月の経過が早くなるのは、生きてきた人生の長さと一年の長さとの相対的な関係によるものだと思っていましたが、どうもそうではないらしい。年齢と共に記憶のシャッターを切る回数が減って、出来事を飛び飛びにしか記憶出来なくなるかららしい。ようするに、記憶の枚数が少ないから、だからそれを再生しても、一年なんてあっと言う間に終ってしまう。しかもソーダ水の泡のように、ちっちゃな記憶は消えて行くという、寂しい話、、、。(2011年夏詠)

鳴く声の数ほどあらず蝉の殻

気候の差によるのだろうか、岡山県内でも北部と南部では真夏に鳴く蝉が異なる。県北ではアブラゼミが主流であるが、県南に行くとクマゼミが主流となる。どのあたりが境になるのだろう。わが故郷成羽ではアブラゼミだった。岡山市津島にある運動公園ではクマゼミとなる。中学生の夏に登った天神山(高梁市)で初めてクマゼミの声を聞いた記憶がある。どちらも暑そうな声に変りはないが、アブラゼミのほうが少し優しいかな。(2008年夏詠)

広重の雨脚見ゆる夕立かな

安藤広重の浮世絵「東海道五十三次之内 庄野」は、庄野宿(現在の鈴鹿市庄野町)付近の夕立の絵です。雨の中を急ぐ人物が活写されていますが、雨もまた見事です。広重の東海道五十三次は、永谷園のお茶漬け海苔で覚えました。五袋ぐらい入りのお茶漬け海苔におまけで付いていた名刺より少し大きいぐらいのあれです。何度挑戦しても、半分も集まりませんでした。(2009年夏詠)

白南風やのれん褪せたる定食屋

近畿自動車道を門真で降り、外環へむけてしばらく走ったところにその店はあった。のれんの褪せた色からも新しい店でないことは分かったが、今まで気付かなかったのが不思議なようなところだった。入ると広くはない細長い店内にはテーブルがいくつか、端っこの天井に近いところには小さなテレビが点けっぱなしにしてあった。ちょっと小太りの熟女店員に迷わず日替わり定食を注文、しばらくして定食を運んできた店員は、元気な声とともにエプロンのポケットから、マヨネーズとドレッシングの大瓶を取り出して置いて行った。味は良かったので、もう一度行きたかったがそれっきりになってしまった。(2003年夏詠)

売声を受けて流して夏柳

久しぶりの倉敷美観地区。観光客の増え始めた午前十時過ぎ。川沿いの土産物屋もぼちぼちエンジンがかかってくる頃。元気なうちに売っておこうと売子が声を張り上げる。そ知らぬ顔でベンチに腰を下ろし、俳句手帳を取り出す。客ではないと分かったかな、心なしか売子の声が小さくなったような気がする。風にゆれる夏柳の緑がきれいだ。(2012年夏詠)

水泳の育つ筋肉なつかしき

サラリーマン時代は、普通に食べて働いて、ほとんど体重の変化はありませんでした。体型のほうは、多少肉の種類が変わったり、付いている部位が変わったりしましたが、、、。と言うことで、水泳を始めて5ヶ月が経ちました。経過をみると、私の場合だいたい1300mから1500m泳ぐと、体重がトントンで維持できるようです。すなわち働いていた時は、毎日1500m泳いだぐらいのエネルギーを消費していたということになるのでしょうか、、、。失くした筋肉も多少は戻るようです。懐かしい程度ですが、、、。(2012年夏詠)

水打つて路地の朝の動きけり

倉敷の美観地区へ行くと、入り組んで路地がたくさんある。だいぶ慣れたが、完全とは言い難く、何度も同じところへ出たりする。行き止まりの塀の上を猫が歩いている、なんていうのもご愛嬌だ。路地には水が打たれ、軒を連ねる観光客相手の店では朝の準備が始まっている。(2011年夏詠)

堰二つ水音二つ青田風

いつもの散歩コース、田圃の真中をまっすぐに広い道が走っている。その道に沿うように、これも大きめの用水路がある。用水路にはそれぞれの田圃の水口に堰が設けてあり、板を差し込んで水量を調節するようになっている。田植の頃には激しい音をたてていた堰も、青田の頃になると必要な水量も少なくなるのだろう、どの堰も落ち着いた軽やかな音をたてている。(2010年夏詠)

端居して父と語りし後のこと

父は昔から煎茶が好きでした。私も嫌いではないので、若い時から、誘われれば相手をしました。父が話をしながら淹れてくれるのを待って、私はひたすら飲むだけの係でした。後の事が話題になったかと言えば、決してそんなことはなく、そういう話をしない間に父は死んでしまいました。わかっていれば父だって話したでしょうが、後悔先に立たずです。僅かに聞いた話の切れ端が、あまりにも短いのです。(1999年夏詠)

父に借る父のにほひの夏帽子

大して役に立つわけではありませんが、時には田舎へ帰り、親孝行の真似事をしたこともあります。もともと帽子はあまり被らないので、無くても平気なのですが、母の出してくれる、父の一張羅の麦藁帽子を、素直に被りました。これも親孝行かと、、、。(1999年夏詠)