落椿拾うておれば椿落つ

「後転が出来るか?」と言うので、「後転ぐらいどうってことないだろう」とやってみたら、「あれっ?」出来ない。もう一度、「あれっ?」。勢いが足りないのかと、三度目に勢いをつけたら、グキッと首の下あたりを痛めてしまった。二三日もすれば治るでしょうが、知らない間に老化は来ているのだと痛感した次第です。皆さん、後転ぐらいと侮ってはいけませんぞ、、、。(1998年春詠)

日本海水平線まで冬の雲

ず~っと昔、一泊忘年会で鳥取の海辺の民宿へ行ったことがあります。仕事が終ってから出発しますから現地に着くのは結構な時刻です。着いたらすぐに風呂、蟹尽くしの宴会と続いて、後は寝るだけ組か、麻雀組かになります。翌日は重たい頭を抱えて港へ、お決まりの魚市場での買物、海を見ての帰途となります。雪がちらつく寒い日でした。初めて見た冬の日本海は、黒く低い雲が水平線まで垂れ込め、押しつぶされそうな感じを受けました。ああ、これが日本海側の冬の暮らしなのだと思いました。・・・掲句は海の写真を見ていてその時を思い出した時の句です。(1998年冬詠)

少年のことごとく打つ曼珠沙華

初心の頃の作。徒歩通勤の途中の畦道に咲いていた彼岸花が、ある朝ことごとく折られその場に散乱していた。少年の頃の自分も同じようなことをした記憶がある。すっと立った彼岸花は折れやすく、折れると少し苦いような匂いがした。少年のストレス解消には絶好の材料だった。大人からは毒があるから触るなと言われ、墓地に多く咲く花に、けっして良いイメージなど持てなかった。そんな彼岸花を美しく思えるようになったのは俳句を始めてからのことだ。(1998年秋詠)

大根蒔く話も出でし集会所

俗に「津山時間」あるいは「作州時間」と呼ばれるものがある。なんてことはない、ようするに時間にルーズで、決められた集合時間は、その時間までに集まるのではなく、その時間から集まり始めるというぐらいに考えておいたほうが良い、と言うのが津山時間である。今はだいぶ良くなったが昔はひどかった。だから役員会でも寄り合いでも、本題に入るまでがやたらと長く、近況の確認から始まり、近所の誰某の噂話、やがて種まきの話なども出てくるのである。歳時記によると、大根は二百十日前後に蒔くそうだ。(1998年秋詠)

離陸機の大円描く秋天に

中国自動車道からは伊丹空港から離陸し、旋回して飛び去って行く飛行機が見えます。中国自動車道に限ったことではありませんが、離陸した飛行機が飛び去って行く姿には旅心を誘われます。まして、出張帰りの車中で、機体の背景が秋の夕空ならなおさらです。(1998年秋詠)

工場の鉄の戸開く秋の野へ

コンピューターの道に足を踏み込んだのは今から二十五年ほど前になります。仕事柄休日に出て一人で作業することが増えましたが、苦にはなりませんでした。むしろ集中して思考の世界に浸れましたので、充実感で一杯でした。やっと一区切りついて、工場の重い鉄扉を押し開くと、そこには急に明るいグランドが広がっていました。(1998年秋詠)

空の色変はらず在りし原爆忌

昭和二十年、母は岡山の天満屋で働いていた。空襲があったのがその年の6月29日、たまたま実家(現総社市)に帰っていて難を逃れた。実家からも岡山の方角の空が真っ赤に見えて恐ろしかった。あのとき帰っていなかったらお前たちは生れていなかったのだと、幼い頃の寝物語に何度も何度も聞かされた。広島に原爆が投下されたのはそれから38日後のことになる。(1998年夏詠)

五月雨に黙して通夜の人帰る

いよいよ梅雨ですね。通夜、葬儀がまだ自宅で行われていた頃の句です。町内のとあるお宅での通夜を終え、連れ立って雨の中を帰途につく。雨のせいもあるが、いつもは饒舌な女性陣も黙って傘の人となっている。急ぐでもなく、適度な間隔を保ったままそれぞれの自宅の前まで来ると、簡単な挨拶を交し門の中へと消えて行く。一人消え、二人消え、やがて夜の闇に一人取り残されてしまう。(1998年夏詠)

新じやがの茹で上げてまだ野のにほひ

「新じやが」なんてのも季語なんだから俳句って楽しいですね。狭い庭の隅にコンポストを置いて野菜屑を放り込むと、時には腐りかけたジャガイモなんてのも在って、それから芽が出て、毎年のように育ちます。ただ、狭いところなのでどうしても連作障害でしょうか、だんだんと小さな薯になってしまいます。食べられそうなのを集めて茹でると何とも良い匂いですが、食べるとそうでもないのです。(1998年夏詠)