犬の鼻触れて落蝉生き返る

散歩していると落蝉に出会う。落ちたときのひっくり返った姿のままで力尽き、やがて静かに死を迎えるのだろう。そんなところに犬の鼻が近づいて来るものだから、蝉はおちおち死んでも居られない。息を吹き返した蝉はジジジジと激しく鳴きながら、またどこかへ飛んでいった。(2010年秋詠)

夏明や隣家にコップ洗ふ音

目覚めれば朝のしじまの中に、水道の音と、コップの触れる小気味のよい音が、昨夜の宴の名残りのように続いている。気持ちの良い朝の目覚めだ・・・。子どもの頃の夏休みの朝は、母が台所で胡瓜を刻む音で目覚めた。食卓に胡瓜の無い日はなかったなあ。(2011年夏詠)

ドップラー効果蝉音の下行けば

ピーポーピーポーと救急車が近づいてきて、目の前を通り過ぎると途端にピーポーの音の高さが変わりませんか。あれをドップラー効果と言います。近づいてくる物から出る音は高く、遠ざかる物から出る音は低く聞えるのです。蝉音にドップラー効果なんて在る訳はありませんが、ニイニイ蝉の鳴いている木の下を通ると、そんな気がしませんか。(2011年夏詠)

手を上ぐるだけのあいさつ朝涼し

私より十才ぐらい上だろうか、同じ町内のKさんの家は、私の散歩コースから間に田圃一枚置いたところにあり、庭にいるKさんの姿がコースから見える。退職された当時は毎日のように姿が見えたが、このところ腰痛とかで見かけることがめっきり少なくなった。久しぶりに見かけたKさん、こちらに気付いたようなので手を上げると、以前と同じように笑顔で手が上がった。どうやら元気を取り戻されたようだった。(2011年夏詠)

空の色変はらず在りし原爆忌

昭和二十年、母は岡山の天満屋で働いていた。空襲があったのがその年の6月29日、たまたま実家(現総社市)に帰っていて難を逃れた。実家からも岡山の方角の空が真っ赤に見えて恐ろしかった。あのとき帰っていなかったらお前たちは生れていなかったのだと、幼い頃の寝物語に何度も何度も聞かされた。広島に原爆が投下されたのはそれから38日後のことになる。(1998年夏詠)

声大き隣家の教師夜の秋

都会ではこうも行かないだろうが、片田舎の夏の夜はもっぱら網戸での生活となる。川に近いせいか、心地よい夜風が入ってくる。夜風も入ってくるが、隣家の声も入ってくる。ま、これも風情の一つだろう。隣家あってのことである。(2011年夏詠)

余所者と知れば藪蚊の寄り来る

虫たちも人間を観察している。と、思うのは私だけでしょうか。だから私は藪蚊にしろ、他の虫たちにしろ、負けないように大きな顔で対応してやることにしています。空家になった実家に帰ると、今まで自由に暮らしていた庭の虫たちが、「変なやつが来たぞ!」といっせいに逃げ出すのです。「馬鹿なことを言うんじゃあないよ、お前たちよりよっぽど昔に住んでいたんだから」と言ってやります。(2009年夏詠)

夏河原骸となりし物臭ふ

夏の河原を歩いていると、どこからともなく死臭がしてくることがあります。それは子どもの頃から何度も経験してきたことなので、だいたいどんな動物なのか想像がつきます。特に蛇は、言葉では表せませんが、独特の死臭でそれとわかります。問題はわからない臭いで、夏の生い茂った草の中から得たいの知れない臭いがしてきた時には、身構えることになります。まさか、人の死体ということはないでしょうが、、、。(2008年夏詠)

暑いねと言うて暑さを貰ひけり

なんてことはないんだが、「暑いですね」と言われると他に挨拶の言葉も無いので、つい「暑いですね」と答えてしまう。次の言葉が続かず、途端に首筋の後あたりから、どっと暑さが溢れてくる。そんな事ってありませんか。(2011年夏詠)