冬芽持つサクラモクレンコクチナシ

こちらは阿南市内の牛岐城趾公園での句。広場の中央に巨大なクリスマスツリーがあった。その大きさに圧倒されるが、もちろん朝なので点灯は無し、訪れている人も無い。植栽に付けられた名札は「サクラ」「モクレン」「コクチナシ」、南国の木々はしっかりと冬芽を育て、春に備えていた、、、。(2011年冬詠)

路地ひとつ折れてまともに冬朝日

続けてもう一句、同じ頃の句。「ええっと、ここを曲がれば」と、簡単な地図を頼りに路地に入ると正面に朝日があった。大きかった。山国ではこうは行かない、朝日は山の端に昇るものと決まっているから、、、。(2011年冬詠)

駅頭に立てば時雨るる夜明空

四国での最後のサラリーマン生活での句。夜明け前から起き出して散歩、ホテルのフロントで貰った地図を頼りに阿南市内を散策、二十分ぐらいは歩いただろうか、たどり着いた駅で時雨に会った。駅舎に入り、しばらく人の流れを眺め、時雨の通り過ぎるのを待った。外に出ると明けかけた街のクリスマスのイルミネーションが時雨に濡れて滲んで見えた、、、。(2011年冬詠)

冬夕日水に硬さのもどりけり

毎日の散歩コースの吉井川べりは、日が落ちると途端に寒さが増してくる。風というほどではない冷気の流れが頬や手先を冷やしていく。川面は暮れてゆく空に呼応するように、しだいに硬いガラスのような色へと変化していく。水が硬くなるわけはないのだが、、、。(2009年冬詠)

二階よりバイエルこぼれ冬麗

散歩の途中で聞こえて来たたどたどしいピアノの音、今まで聞こえたことが無かったから新しく習い始めたのだろう。あれから三年、今も通ると時々聞こえる。発表会用の曲だろう、だいぶピアノらしくなってきたなあ、なんて自分の子どもが小さかった頃を思い出している、、、。がんばれ、ラ・カンパネラまではまだ遠い、、、。(2010年冬詠)

鳥撃ちのまだ目の開いた鴨を提げ

昨年はとうとう見ることが無かったが、禁猟区ではない吉井川沿いの散歩コースには、以前は鳥を狙うハンターの姿が度々あった。猟犬の声が聞こえ、猟銃の乾いた音がすると心が痛んだ。姿は見ずとも河原に空の薬莢が落ちており、水鳥が消えていることも度々あった。掲句の時はたまたま撃ったばかりの鴨を提げて茂みから土手に上がってきた男に行き会った。鴨はもう死んでいるのだろう、男に足を提げられて伸びきった首に、艶々と鮮やかな青い毛と、うつろな眼があった。男の眼は血走っていた。二度と見たくない光景だった、、、。あれから十五年、今は猟師の姿を見ることはほとんど無い、、、。(1998年冬詠)

枯野行く一つの影となりて行く

枯野を歩いていた。上空の声に見上げると、はるかな高みに鳶の姿が見えた。空から見ると、人間なんて小っぽけな物なんだろうと、そんな事を考えた。眼を落したその先に、自分の影が小さく見えた、、、。(2012年冬詠)