実家の裏手にある古い墓地、石を置いただけの物を含めると全部で二十基ぐらいだろうか、一番新しいもので明治の年号が読み取れる。それ以降は別の墓地へ眠っている。掲句、この年までは父が元気だった。帰省して、墓参りをして、何となく詠んだ句だが、翌年からは自分で掃除をすることになった。蜩どころでは無くなってしまった、、、。(2002年秋詠)
新涼や路地に母呼ぶ幼声
長いサラリーマン生活のほとんどを、同じ時刻に同じ道を通り、同じ路地を抜けて会社に通った。長い年月の間には、畦道が立派なアスファルトの直線道路になり、やがて周辺が宅地へと変わって行った。新しい家が建ち、新しい人々の営みが始まった、、、。よくよく考えてみると、徒歩20分の通勤路で、ほとんどの道が変わって行った。唯一変わらなかったのがこの路地だったように思う。もちろん、住んでいる人は歳をとり、子どもたちは巣立って行ったが、、、。(2001年秋詠)
新涼や子の駆けて行く登校日
自分が小学生だった時の登校日ってどうだったろう?と、思い出そうとするのですが、これがさっぱり覚えていないのです。なかったはずは無いのですが、、、。そして、夏休みで覚えていることと言えば、最終日に必死で宿題をしたことです。今年こそはと最初の二三日は思うのですが、気が付けば、、、。(2000年秋詠)
千の稲万の葉先に露の玉
立秋、朝早く散歩に出ると青々と成長した稲の、それぞれの葉先に露の玉が光っている。早稲の田にはすでに稲穂も見えている、、、。(2013年夏詠)
川底に光る魚影や原爆忌
今年も原爆忌がやって来ました。記事は前倒しで書いていますので、実際のところの当日の天候はわかりませんが、私が八月六日を意識するようになってからというもの、なぜか晴天の日が多いのです。いつ意識するようになったかと言うと、恥ずかしい話ですが、俳句を始めて歳時記に「原爆忌」を見つけてからです、、、。生まれ育ったのはまだ実生活の中に戦後があった頃です。もちろん原爆の恐ろしさもくり返し聞かされた筈なのですが、記憶の中にはなぜか、ほとんど残っていないのです、、、。(2002年夏詠)
夏帽子拡げてもらふミニトマト
さて、どこで詠んだ句だったろう?こんな句が残っていた、、、。(2002年夏詠)
白よりも白き峰雲立ちにけり
本当の白さとはどんな色だろうと思うとき、夕日を受けて立ち上がる峰雲の白さが浮かぶ。白い雲の上にさらに白い雲が重なり、究極の白に近づいているように見える。では、雪の白さと比べてどうなんだろう、と考えてみるが、残念ながら峰雲と雪を並べて見た事が無い。雪の残る夏山に登れば見えるだろうか、、、。(2010年夏詠)
朝の蚊に足裏刺されし悲しさよ
皆さんは足の裏を蚊に刺されたことがあるだろうか。なんとも情けない嫌な痒みなのです、、、。私の古い友人に、熊のように脛毛が濃い男がいました。どれくらい濃いかと言うと、血を吸おうとやってきた蚊が、もじゃもじゃの毛の中に絡まって出られなくなるのです、、、。(2013年夏詠)
汗ふきの端を咥へて測量士
外でする仕事はいろいろあるが、どれをとっても楽な仕事などありそうもない。掲句は2009年に詠んだ句だが、平日に出ることが多くなった今、暑い中で仕事をされている方々の姿を見る機会も増え、改めてそう思うのです、、、。(2009年夏詠)
機関区をはみ出す鉄路草いきれ
帰省に伯備線を利用していた頃は、岡山駅を出てしばらくは何本も線路のある広大な駅の風景が続き、駅って広いなと感じていたが、句会へ行くのにその線路沿いを歩くようになって、改めてその広さを感じている。電車の窓から眺める線路が中心にある風景と違い、たくさんの鉄道関連の建物や施設が町と複雑に入り組んでいるのが見え、興味を惹かれて飽きない。古い機関区の大きな建物では、開け放った大戸のむこうに整備されている機関車が見える。引き込み用の線路は機関車の下からその大戸を出てフェンス際まで敷かれ、夏には草に覆われている、、、。(2012年夏詠)