もう十二月になってしまいました。早いものです。去年の十二月はほとんど四国で過ごしました。たまに津山へ戻っても、すでに会社の中は空っぽで、そんな中での仕事でした。いつもは饒舌な女子社員の口も滞りがち、またしてはため息が漏れるのです。今月で無職になるのですから、仕事が空けば不安がよぎるのは無理のないこと、まして大学生と高校生の子を持つ彼女には、、、。そんな彼女から先日うれしい電話がありました。「やっと仕事が決まり、報告の電話ができることになりました、、、。」それから何分間話したことでしょう。相変わらずの饒舌ぶりに、私も負けないように必死で対抗しました。かつてのように、、、。次の会社では、ちょっと控えめにしてね。私のように我慢強い上司はいないと思うから、、、。(2011年冬詠)
霜晴やジェット機雲を育てつつ
「霜晴の一直線の寒さかな」についてのコメントありがとうございました。いろいろ考えてみましたが、良い案が浮ばず、近詠句に置き換えました。これも空が明るくなり、遠くの山の上に朝日が顔を出し始める頃でしたが、晴れた空に力強く伸びていく飛行機雲が印象的でした。そうそう、この雲も一直線でした、、、。(2012年冬詠)
大根をぬき身でさげて漢来る
よく晴れた、まさに小春日和の日、津山市二宮あたりの出雲街道を走っていました。出雲街道の中では比較的道幅も広く、ゆったりとした感じがする地域です。堂々とした体格の男が葉の付いた大根を刀のごとく提げ、真っ直ぐ前を向いて外股気味に歩いてくるのに出会った。という、ただそれだけのことです、、、。(2008年冬詠)
掃き寄する中にむくろの冬の蜂
いよいよ我家の落葉は山法師を残すのみとなりました。去年までは一面に散り敷いた一週間分の落葉を掃くのが休日の仕事でしたが、今年は毎日、落葉とおっかけっこをするように掃いてみました。掃いているうちに落ちてくる次の落葉をまた掃いて、これはこれで結構楽しいものですね。(2010年冬詠)
冬晴やゑびすの顔の鬼瓦
鬼瓦って言うぐらいだから、元々は厄除けの鬼の顔だったのだろうが、よく見るといろいろな鬼瓦がありますね。ちなみに我家の鬼瓦は「ガッチャマンです」と住宅メーカーの営業マンが言っていました。う~ん、そう言えばそうかなとも思いますが、ようするに安物です、、、。(2002年冬詠)
叱られし子に柊の花匂ふ
長年徒歩通勤をしたが、それは自分の歴史でもあるし、道すがらの家々の歴史でもあります。通りかかると「おっちゃん、おはよう」と言ってくれた幼稚園の女の子は、高校生になり、やがて子どもを抱いて里帰りをした姿を目にするようになりました。貰われてきたばかりだった子犬は、うるさい犬に育ったが、やがて年老いて眠るばかりになってしまいました。柊のある家の叱られてばかりいた男の子は、いつの間にか見かけなくなってしまったなあ、、、。(1999年冬詠)
しぐるるや訃報書き込む掲示板
こんな句を残しているので、社内にグループウェアの導入が始まったのがこの頃だったのでしょうね。便利にはなりましたが、こういう書き込みをするのも仕事の一つになりました。(1999年冬詠)
石仏の朽ちし花筒竜の玉
何とも美しい青い玉を、子どもの頃は「くす玉」と呼んでいました。細い竹で鉄砲を作り、その弾として使っていましたが、大きさが均一で、青い表皮の下は白くて硬い球状で、鉄砲の弾には最適でした。それにたくさん採っても、ポケットに入れても、決して汚れることがないのが良かった。俳句を始めて「竜の玉」の名前を知ったが、すぐに納得できました。これほど最適な名前はないでしょう。(2000年冬詠)
木枯や無住寺閉ざす五寸釘
「人数が足りないみたいで安く蟹を食べに行ける」と言うので、急遽広島県の山奥の温泉へバスツアーに行ったことがあります。急に行ったことを理由にしますが、その温泉の名前が思い出せない、、、。川沿いのひなびた温泉で、川に向かって見晴らしの良い露天風呂がありました。少し歩いたところに橋があり、橋を渡ったところからお地蔵さんがならぶ坂道が続き、上りきったところにお寺がありました。普段は誰も居ないお寺なのでしょう、建物の扉はいかにも「入るべからず」と言うように、大きな釘が打たれていました。(2001年冬詠)
小春日や二階より入る引越荷
2000年だったのかと今思い出しています。隣の隣に新しい家が建って、引っ越して来られた時の句です。そう言えば我家の時も、箪笥やらベッドやらを二階から入れたなあ、上手いもんだなあ、と思い出しながら眺めていました。我家を建てた時は周囲は田んぼでした。夕方になると裏の線路を狐が歩いていくようなところでしたが、、、。(2000年冬詠)