峡の空狭し銀河の近かりし

以前にも書きましたが、私の実家は山と山に挟まれたところにあります。子どもの頃には街灯もなかったので、晴れた空には星が綺麗でした。峡を挟んで山から山へ、落ちて来そうな近さで銀河が流れ、涼み台に寝っころがっていると、いくつもいくつも流星が見えました。(2009年秋詠)

鬼やんまこの家の間取知るごとく

開け放った田舎の家を、鬼やんまが我が物顔に通り過ぎて行く。まるでこの家の間取を熟知しているかのように、堂々とした飛行だ。昔はよくあった風景だが、今はどうなんだろう。鬼やんまも少なくなっただろうな。(2009年秋詠)

余所者と知れば藪蚊の寄り来る

虫たちも人間を観察している。と、思うのは私だけでしょうか。だから私は藪蚊にしろ、他の虫たちにしろ、負けないように大きな顔で対応してやることにしています。空家になった実家に帰ると、今まで自由に暮らしていた庭の虫たちが、「変なやつが来たぞ!」といっせいに逃げ出すのです。「馬鹿なことを言うんじゃあないよ、お前たちよりよっぽど昔に住んでいたんだから」と言ってやります。(2009年夏詠)

広重の雨脚見ゆる夕立かな

安藤広重の浮世絵「東海道五十三次之内 庄野」は、庄野宿(現在の鈴鹿市庄野町)付近の夕立の絵です。雨の中を急ぐ人物が活写されていますが、雨もまた見事です。広重の東海道五十三次は、永谷園のお茶漬け海苔で覚えました。五袋ぐらい入りのお茶漬け海苔におまけで付いていた名刺より少し大きいぐらいのあれです。何度挑戦しても、半分も集まりませんでした。(2009年夏詠)

自動ドア開き炎帝かつとある

さしたる目的もなくショッピングセンターに入る。差し障りの無いところを一通り見て周り、汗が引いたところで本屋で時間を潰す。さあ帰ろうと出口に向かうと、止る間もなく自動ドアがすーっと開く。一歩踏み出した途端に真夏の太陽が正面にあった。(2009年夏詠)

蛇の衣またあり更に長かりし

蛇嫌いの方、すみません。蛇は冬眠から覚めてしばらく経つと脱皮を始めます。年に何回ぐらい脱皮するのか分かりませんが、だいたい同じ頃に脱皮することが多いようで、一度の散歩で何回も新しい蛇の衣に出会うことがあります。衣があればその数の本体が近くに居るわけで、それなりにドキドキしながら辺りを見回したりします、、、。財布に蛇の衣を入れておくとお金が貯まるそうです。ご希望があれば実費にてお分けいたしますのでご連絡ください。(2009年夏詠)

老鶯の間近に見れば痩せてゐし

突然身近に鶯の声がして驚くことがある。それでいて、なかなか姿が見えない。声を頼りにしばらく待って、やっと見つけたと思ったらもう次の茂みに移って行く。老鶯に限らず、鶯そのものが細身の鳥で、よくあれだけの声がするものだと感心する。いつもの散歩コースで。(2009年夏詠)

子目高のピリオドほどが泳ぎけり

ディスプレイに向かうと老眼のせいか、入力したのがピリオドなのか、はたまたカンマなのか、見分けが付かないことがあります。薄暗い甕の中の、生れたばかりの目高は、ちょうどあの大きさなのです。目を凝らして見ると、確かに動く点がいるのです。(2009年夏詠)

ふりむけば夏の空ある机かな

細長い事務所の端っこ、窓を背に全体が見渡せる場所に机を置き、仕事に専念する毎日だった。と言えば聞こえは良いが、それだけではない。後を見れば窓がある。窓の向うには空が広がっている。後を向いて考え事をしている、と見えて実はこんな俳句を作っていたことを女子社員のIさんは知っていただろうか。(2009年夏詠)

桜桃の熟れ時鳥と見てをりぬ

我家に桜桃の木がある。子どもが小さい時に植えた木だが、たくさん実をつけるようになる頃には子どもは家を離れた。網もかけずに自然に任せているので、ほとんど鳥に食べられてしまう。鳥は利口で、羽音を忍ばせて毎日熟れ具合を確かめに来る。知らぬふりをしてギリギリまで待って、ちょっとだけ鳥より先にいただこうと思うのだが、敵もさる者。毎年の馬鹿な挑戦。(2009年夏詠)