遠霞山より電波ゆらゆらと

今年は三寒四温の振れが大きくて、私のような不器用な人間は付いて行けません。困ったものです。さて、見えないものの一つに電波があります。見えませんが波の字が付いているから電波だって海の波と同じようなものなのです。ならば、蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」にあるような電波だってあるかも知れない。なんて事を遠くの山を見ながらボーっとした頭で考えたりした時の句です、、、。(2015年春詠)

昨日今日二日続きの春の夢

夢はたいてい朝起きると忘れているものだが、掲句の日は覚えていた。それも二日続きで連続ドラマのように。で、掲句になった訳ですが、その夢が何だったかは、今となっては思い出せない、遠い春の夢です、、、。(2015年春詠)

如月の展望台は風ばかり

我が家から見えるテレビ塔のある山には展望台があります。という事は知っていたのですが、上ってみたのは掲句の昨年が初めてでした。山の中腹で、我が家からはよく見えるのですが、展望台からの視界は以外と狭くて、とうとう我が家を探すことは出来ませんでした、、、。(2015年春詠)

重き戸を開けてひひなの部屋ぬくし

昨年も今年も阿智神社の参集殿に多くの雛飾りが展示されていました。今年は去年を思い出しながら入ったのですが、今年も去年と同じように暖房のために締め切った入り口の古いガラス戸は重かったです。今年も寒かったのですが、去年はそれ以上に寒くて、この部屋に入ったとたんにホッとした事も思い出しました、、、。(2015年春詠)

青竹の垣の奥なる雛の家

三月です。最近は町を挙げての雛祭の行事が多いですね。掲句は昨年二月の倉敷での吟行句です。雛飾りも美しいのですが、随所に使われている青竹の色も緋毛氈とマッチして美しいですね。倉敷へ行く途中、足守でも古い通り沿いに雛の展示を見かけました。こちらは倉敷ほど華やかではありませんが、町並みにマッチした落ち着いた展示がされています。機会があれば是非どうぞ、、、。(2015年春詠)

掌を上に御仏春の昼

昨年春、父の十三回忌での句です。実家のお寺で少人数で慎ましく行いました。ありがたい読経を聞きながら見上げた先の大日如来坐像です。若いお坊さんですがよく勉強されていて、一生懸命わかりやすく説教をしてくださいます。少しだけと言いながら、こちらも本気で聞いていると、ついつい話が発展して行って、、、。(2015年春詠)

少年の会釈小さし風光る

田舎だから自転車の学生に出会うこと自体が少ないのですが、それでも朝の散歩の途中にたまにはすれ違うことがあります。中には大きな声で挨拶してくれる少年少女も居ますが、ほとんどは知らん顔で通り過ぎて行きます。向こうから来る少年をこの子はどうするだろうと思いながら黙って見ているとたまたま目が合って、瞬間少年の目つきは「しまった」というふうに見えましたが、ペコッと小さく会釈をして過ぎて行きました。反抗期の少年らしい顔つきでした、、、。(2015年春詠)

梅東風や屋根打つ屋根のトタン板

また東風の句です。散歩コースの外れに古い市営住宅があります。ほんとに古くて、半分ぐらいは空家ではないかと思う、その中の一戸です。建物から張り出して増築されたテラスのトタン屋根、トタンの端が剥がれて重ねた下のトタンを風が吹く度に打っているのです。その一定のリズムが面白くてこんな句にしましたが、これも説明が無いと分からない句ですね。失礼しました、、、。(2015年春詠)

如月の田に積まれたる肥袋

さあ始めるぞ、と言った存在感で田の片隅にビニール袋に入った肥料が積み上げられている。少しずつ季節が進むように、農作業も少しずつ進んで行く。冬の間に一度起こされた田はもう緑がかって見えている。次はこの肥料を撒いて、その後をもう一度耕すのだろう、と素人考えで想像しながら通りすぎる、、、。(2015年春詠)