津山市の城東地区にある作州城東屋敷、江戸時代の町家を復元した無料休憩所だが、管理を任されているのは地区の方らしい。いつも数人の方が居られるが、この時は入り口を入っても人影がなかった。ガラス戸の向うに灯りが見え、話し声が聞こえるので声をかけてみるが、笑い声に消されて聞こえないらしい。何度目かで「はあい」と返事があり、やおら立ち上がる気配。ガラス戸が開いて、出てこられたのはそこそこの老婦人。その後に大きな炬燵と、同じく同年代と思われる女性の姿があった、、、。(2013年春詠)
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駅頭に春のときめきあふれけり
もう少し春浅い頃だったろうか、岡山駅東口での句。三月の駅には別れもあるが出会いもある。そして旅立ちも。そんなものがごちゃ混ぜになって、駅頭にあふれ出す、、、。(2013年春詠)
道具屋の主も古しうららけし
岡山駅前の大通りに面した骨董屋さん(名前は忘れました)、ちょいと覗くと奥のほうに備中神楽の面が見える。吸い込まれるように入っていくと、ところ狭しと飾られた骨董品の間から、これまた同じくらいに古びた主のにこやかな顔が、待ってましたとばかりに出てくる。「お面ですか?」「え、ええ、まあ、、、」「こっちにも良いのがありますよ」「いえ、見るだけですから」「かまいません、いくらでも見てください」そんなふうに言われてもと、そうそうに店を後にしたが、それにしてもあの主の笑顔は骨董屋らしくてよかった。それから二回ほど寄ってみた、、、。(2013年春詠)
耕して命のにほひ甦る
田舎で育ったせいか、大地を耕した後のあの匂いが好きです。母なる大地、生命の源という感じがします、、、。(2013年春詠)
薄氷や田に新しき足の跡
暑さ寒さも彼岸まで。今日を境に春も後半へ、、、。(2001年春詠)
人逝くもひとつの話題春炬燵
久しぶりに田舎へ帰り墓参りをしてきた。父が亡くなったのは春のお彼岸、母が亡くなったのは秋のお彼岸、と、無精者の息子を気遣ってのことかどうか、いろいろ纏めて済ませてきた。掲句、まだ父母とも元気だった頃、久しぶりに帰ったの実家の春炬燵で、父ととりとめのない話で時間をすごした時の句。どこそこの誰それが、、、と、聞き覚えのある人の訃報に相槌を打ちながら聞いたものだが、数年後にはその父がその「どこそこの誰それ」になってしまった、、、。(1999年春詠)
右は海左は会社うららけし
ははは、こんな事もありました。出張先での句。どちらへ行ったでしょう。正解は「寄道をして海を眺めてから会社へ行った」です、、、。(2012年春詠)
野火あとの看板残るひみつきち
散歩の途中の家並から少し離れた田圃の中に、古びた売土地の看板に蔦の絡まった草ぼうぼうの空地があった。その空地に掲句の少し前あたりから男の子たちの声がするようになった。草に隠れて姿は見えないが、なにやらガラクタの類が置いてあり、にぎやかな声がする。そんなことが一週間ほど続いただろうか、ある日通りかかるとその空地がすっかり焼け野原になっていた。もちろん子どもの姿は無く、溶けて原型をとどめていないガラクタが数個転がっていた。看板も下半分ぐらいが焼けていた。何となく看板の裏を覗くと、平仮名で書いた「ひみつきち」の文字が焼けずに残っていた、、、。(2013年春詠)
トンネルの中が県境山笑ふ
掲句、出張で中国自動車道を岡山県から兵庫県へと越える県境のトンネルでの句です。昔、幻の国道と言われた180号線の県境を、自転車で越えたことがあります。地図には書かれているのに峠のふもとで道が消え、後は自転車を押しての、夕立と雷鳴の中を草を掻き分けての峠越えでした。旅に出た初日のひどい話ですが、今となっては青春の懐かしい思い出です、、、。今はどうなっているのだろうとネットで見ると、迂回路と明地トンネルという立派なトンネルが出来ているようでした、、、。(2001年春詠)
遠山にまだ白きもの揚雲雀
日々の散歩コースから中国山地の山並が遠くに見える。その山並が白くなることで冬の訪れを知るが、春までその状態が続くわけではない。白くなったり消えたりを繰り返し、気がつけば白く見える日がなくなっている。たまに寒い朝があり白いこともあるが、同じ白でもそこには冬に入るときの厳しさはなく、どことなく山並全体が丸みを持っているように見える。見るほうの心の持ちようかも知れないし、晴れた空を満喫している雲雀の声のせいなのかも知れない、、、。(2013年春詠)